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『野火』を読み終えたとき、その世界は、私がお預かりしているこの
「アバカの緑色映えて 比島ミンダナオ島戦記」そのままで驚きました。
いえ、同じフィリピンであった史実を、小説という手法を使って伝えたか、
手記として残したか、
という違いなだけであって、
描かれているも世界が同じであって実は当然なのですが。

この「比島ミンダナオ島戦記」は、
私が取り組んでいる戦時下の恋文の主人公、山田藤栄氏が率いた
第100師団353部隊 生還者の方々(ミンタル会)が
三十三回忌法要記念として昭和51年に刊行したものです。

ちなみに、「野火」は大岡昇平氏の実体験を元に書かれているので、
もしや山田部隊でいらしたのでは、と調べてみましたが、
大岡氏は第105師団大藪大隊所属でした。


(ミンダナオ戦記P196より…)
「川辺で石を動かしては何かを口に入れている人影がある。
ミミズの丸呑みであろう。
シャツの縫い目から捕らえて口に入れるのはシラミであろう。
傷口のウジを取って食うものもある。
もう精神錯乱というか異常状況の状態で、
私は何も考える余裕はなかった。
横になると背骨が痛くて、皮膚はカサカサになって油気がなく
何をするのもいやでしかたがない。足はふくれて窪みがもどらない。
栄養失調のきざしである。やがて全身が膨らみ出すのである・・・」

ごくごく一般の、筆を持つことを仕事としない人々が、
忘れ得ぬ記憶として残した手記ほど
胸に迫るものはありません。
なんと戦争とは愚かなことか、と
読み返す度に強く思うのです。

そして、この手記にて、多くの部隊員の方々が
「眼光鋭く、勇猛果敢にて先頭に立つ
この部隊長がいたからこそ我々は戦えたのである」
と記した大隊長・山田藤栄氏の生き様を
私はなんとか描きたいともがいています。

部下のほとんどを戦死させ、自らも捕虜となった藤栄氏。
部下達は終戦を知ったとき、こういったそうです。
「部隊長殿、私達は捕虜になって恥をさらすよりも玉砕すべきです」
「部隊長殿、斬り込みに言って皇軍の華と散りたいのです」
「このままでは死んだ者が犬死にです。
お國のために一心に戦い抜いて来た戦友に申し訳ない。
恥をさらして生きるよりは突撃を敢行して玉砕すべきです」
でも、藤栄氏は
「黙れ、馬鹿者。わしはお前たちに苦労をかけた。
多くの部下を死なせてしまった。
わしの任務とは言え、わしの責任だ。
わしは今更命が惜しいとは思わぬ。
この勅語がお前達以上にどれだけ恨めしくもあり、情けなく思ったことか。
死所を逸した後悔が先に立つが、我々の浅い感情で犠牲になるより、
生き残って祖国を建国するのだ。みんな死んでは祖国は滅亡してしまう。
陛下の意志に副い奉るのだ」
と部下達を説き伏せたそうです。

その大隊長の言葉がなければ、自分の命は今はなかった、と
何人もの方が書いています。


山田藤栄氏はそのカイゼル髭と鍛え抜かれた大きな身体、
正しいと思った事は曲げずに上司にも具申し、
辛抱強い戦いを続けたことから
「ミンタルの虎」と呼ばれていたそうです。
また、そんな彼を支えていたのが、妻からの恋文だったようです。

新婚時代、夫婦が戦地と日本で離ればなれだった1年半の間、
藤栄氏は妻から届いた114通の手紙を1通1通開いては麻ひもで綴じ、
表紙に「故郷の想い出」と書き記して束ね、
1冊の本のようなカタチにしていました。
その束を彼は南方戦線に行くとき、リュックに忍ばせていたのです。
そして、ミンダナオでの捕虜抑留を経て
昭和21年9月に日本に戻ってきたとき、
藤栄氏のリュックの中にはこの手紙の束があったという奇跡。

その藤栄氏は、戦後、福井のとある工場の門番からスタートし、
晩年までを過ごしますが、
家族には戦地でのことを話す事は一切なかったそうです。

ただ、80歳を過ぎて痴呆の症状が出始めた頃から、やっと、
うわごとのように部下の名前や、すまない、
というような言葉を口にすることもあったそうです。

戦地での壮絶な記憶を背負ったまま
生き続けなくてはならなかった苦しみというのは、
我々が想像し、理解できるようなものではないと思っています。
でも、そこに思いを馳せることがあるかないか、が
そういったことを想像する人がどれだけいるか、
そんなことの積み重ねが
未来を変える、つくる、ような気がしています。

此のたび、「野火」が塚本晋也監督によって映画化され、
ベネチア国際映画祭で上映されたと知ったときは、震えました。
しかもこの映画は自主製作で、
映画塚本監督が構想してから20年もの
歳月を経て創り上げたものだそうです。

今、この映画を猛烈に見たい、
塚本監督にお目にかかってみたい、と思っています。