もう5年になります。
この戦時下に交わされた、ある夫婦の恋文115通と出逢ってから。

https://www.facebook.com/114ichirindou

この恋文は、日中戦争から太平洋戦争へ向かう頃、戦地の夫に、
妻が送り続けた手紙です。

その頃、妻には第1子がお腹に宿っていました。
手紙には初めての子を身籠った喜びと、明日の命も分からぬ夫と離れて暮らす不安が
切々と綴られています。
その言葉は時に鮮烈で、「愛しい私の貴方へ」「今宵、貴方の下着を抱いて寝ます」と
ほとばしる熱い思いが乱れた文字で書かれていたりします。

また子どもが誕生してからは、愛しい我が子の成長を詳細に伝え、
「生きて帰ってこの子に一目会って欲しいのです。待っています」と
繰り返し書かれており、胸が詰まります。

その夫の名前は、明治40年生まれの山田藤栄氏。
最後は第100師団、独立歩兵353大隊長としてフィリピンのミンダナオ島で終戦を迎え、
1年間捕虜として抑留された後、昭和21年9月に故郷、福井に戻ってきています。

大東亜戦争、最大の激戦地であったといわれるフィリピンでの惨状は、
数字で追うとよくわかるのですが、戦没者数49万8千数百名。
ちなみに私の住む鎌倉市の人口が約17万人ですから、その約2.5倍の方が
この南方戦線で亡くなっているのです。
また、この山田藤栄氏が率いた部隊においては、部隊兵員1152名のうち戦没者987名、
生存者165名、捕虜となったのは25名との記録が残っています。

この恋文が私のところにやってきた経緯は、こちらをご覧いただけると有難いのですが、
http://ameblo.jp/ichirindou/entry-10957325778.html
私はこの夫婦の第1子、現在、鎌倉に住む渡辺喜久代さんからこのお手紙をお預かりしています。
喜久代さんにはお子さんがいらっしゃらないこと、私が喜久代さんをもう一人の母ように慕っている、
ということもあってご縁をいただきました。

最初、この70年前の恋文を手にしたとき、
大正生まれの女性が「愛しいあなたに抱かれたい」と素直に書いていることにまずは驚きました。
そして何よりも、
「お父ちゃんが骸骨のように痩せ細って家に帰ってきたとき、背負っていたリュックサックの中にあったのが、
この恋文と氷砂糖だけだったのよ」という話を喜久代さんから訊いたとき、ただただ感動したのです。

その頃、すでに書籍の企画プロデュースをするようになっていた私は、
この恋文を題材にすぐに本にしたいと思いました。
そして初めて、自分が書いてみたい、とも思いました。

早速、この手紙の実物と企画書を持って出版社等のメディアをいくつか廻りましたが、
「確かにいい話なんだけど、戦争ものって売れないんだよね」
との返事がほとんどでした。
ある出版社においては、採用がほぼ決定となったものの、
「この夫婦と稲垣さんが無名過ぎる」との理由でとりやめになりました。
(震災前のことです)
また、TVにおいては「愛」と「憎」がないと展開として成り立たない、
と言われました。この恋文には「憎」がないんだよ、と。

確かに。
でも、本当にそうだろうか・・・

そう思いながら、私はまず、この115通の手紙を1通1通タイピングすることから始めました。
旧字、消えかかった筆跡、ボロボロになった紙、時には心乱れた様子がそのまま窺える手紙を
タイピングするのは、想像していた以上に時間と労力が必要なものでした。
また、1通1通、FBページにアップすることも試みてみました。
https://www.facebook.com/114ichirindou
そしてその作業を重ねるうちに、当初は本の主軸となるのは恋文であり、
妻である、山田しづゑさんだと思っていたのですが、次第に
この手紙をずっと大事に持ち続けていた夫の方へ、関心が移っていったのです。

この手紙が届いたとき、この夫はどこにいて、何をし、何を感じていたのだろう?
この手紙に書かれている牡丹江という土地は今のどこに当たるのだろう?
そもそも満州というのは、どれくらの大きさだったのだろう?
ミンダナオでの戦いとはどんなものだったのだろう?
抑留とはどういう状況だったのだろう?
大隊長と少佐、身分はどちらが高いのだっけ?
そのとき、日本の上層部は誰で、何をしていた?

書かれていることの背景までをも理解したいと思うと
知りたいこと、調べなければいけないことが次から次へと出て来ました。

それと同時に、私自身、日本人でありながら、いかに自国の歴史について、
戦争というものについて、何も知らなかった、とういことに、
改めて気づいたのです。
戦時下では、手紙は検閲を受けていた、それくらいのことは知っていても、
戦地へ送る手紙は住所ではなく、第〇隊〇◎部隊宛と書く、
そんなことすら知りませんでした。
考えてみれば、戦地に住所などあるはずもなく、兵士達は常に移動していたのですから。

それから、私は戦争に関するあらゆる本を読み始めました。
山川の日本史の教科書を辿ることから始まり、
とにかく「戦争」に結びつくものならなんでも手にする日々です。
でも、まだまだ、まだまだです。
恥ずかしながら731部隊のこともその過程で知りました。

ずっと気になっていた知覧へも足を運びました。
ある方にアドバイスをいただいて、この山田藤栄氏の軍歴証明書も
福井県から取り寄せることができました。
驚くことに軍歴証明書には、実に詳細に、
例えば昭和15年3月14日朝鮮国境通過、15日間島省延吉着、
7月16日第3軍参課部附被仰付、などと記されていて、
手にしたときは震えました。
一人の兵士の足跡を克明に辿ることができます。
また、ミンダナオの戦いで生き残った方が記された体験記も
何冊か手にすることができました。

そして私はある時から、まったく身動きが取れなくなりました。
「恋文」という小さな箱だけを見ていたときは、すぐにでも本が出せそうな気がしていたのに、
そのときの背景を知れば知る程、取り組むべき課題、山の大きさにすくみ、ペンが全く動かなくなったのです。

また、いろいろなご縁が繋がって、
山田部隊の中隊長でいらした
名古屋在住の加藤きよしさん(現在98歳)にお目にかかることもできました。
加藤さんも同じく1年、捕虜となってから帰国されています。

加藤さんは今も非常にお元気で、名古屋まで押し掛けた私を
あたたかく迎えてくださいましたが、
「戦後生まれの私達が知っておくべきことがあれば教えてください」とお尋ねした途端、
涙が溢れて溢れて何もお話ができない状態に。
加藤さんは遺骨収拾と慰霊の為に、ミンダナオに10回以上も足を運ばれている方です。
が、そこで何があったのかについては、今まで一度も、
奥様やご家族にも話されたことがなかったそうです。

これまでは亡くなった人の無念さ、その家族の悲しみについては
ある程度は想像できる気がしてはいたものの、
生き残った方の苦しみには、全く思いが至ってなかったことに
改めて気づいた瞬間でもありました。
ずっと口にすることができない思いを抱えて生きる辛さ、というのは
どれほどのものか、あの加藤さんの涙を見たとき、少し感じれたように思います。

最初、この恋文を手にしたときは、あんなにもすぐに何かできそうな気がしたのに、
今は全然違う重みと迫力をもって私の中にあります。

いろいろと応援して下さった方、本当に申し訳ありません。
今年の8月15日には間に合いませんでした。
もう少し頑張ってみます。

喜久代さんがいつもおっしゃっています。
「戦争なんてして、幸せになる人は、どこにもどこにもいなんだよ
 戦争は絶対にしてはいけない」

復員して帰ってきた山田氏の後半の人生も、また家族の人生も、
戦争の影を背負い続け、過酷なものだったのです。


この恋文の二人。山田藤栄氏と山田しづゑさん。昭和12年撮影。

 
加藤さんは現在98歳です。
去年まで、戦後1度も欠かすことなく、
8月15日には九段に足を運ばれていたそうです。