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縄文晩期といえばお馴染みコチラ、遮光器土偶。足が欠けているのは呪術の意味合いがあるのでは?とか。欠損の無い状態で出土する方が珍しいらしい。

どこか調子が悪くなったら、土偶を形代にしてそこを破壊して厄を祓った、とかの説があるね。

この土偶の完成度が格段に高いのをみると貴人のために作られたものなのかな。


他にはこんなのも

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宇宙人説って荒唐無稽な話もあったね(^^)

目を開いているデザインの土偶って見ないなあ。ヤッパリ壊すのが目的の形代なのかな?壊す時に目が開いてたら気後れするし。



さて縄文晩期の末、約2800年前に水稲の伝来があったと見られている。

日本最古の水田遺構は菜畑遺跡で佐賀県の唐津にある。水田稲作は耕作地の整地や灌漑工事など、高度な技術を要し、使用する道具も多岐にわたるので、まとまった技術集団によってもたらされたと考えられる。

伝来のルートは4パターンが上げられていて、

①揚子江下流域から直接九州北部へ(対馬暖流ルート)

②揚子江下流域から遼東半島を経由して朝鮮半島を南下、九州北部へ

③江南から南西諸島を経て九州南部へ伝来(黒潮ルート)

④揚子江下流域から山東半島(斉の田)を経て、朝鮮半島南部を経由、九州北部に伝来。


以上のうち①と④の説が特に有力と見らしい。


水田稲作は連作障害が出にくいメリットがあり、食物事情が飛躍的に向上しただろう。最初栽培植物の一部でしかなかったであろう稲が、すぐに主流を占めていくことになる。

そして、向上した食物事情により地域の人口は飛躍的に増加していくことになる。

水稲栽培が急速に各地に波及していく、この時期を境に列島は弥生時代となる。
 商王朝は日本列島の縄文晩期と時をほぼ同じくする。

この王朝は犠牲(生贄)を多用する祭祀で、それには犬、羊、馬、牛などの獣と、あとは人間があてられた。

特に遊牧民の羌族が捕らえられて犠牲にされていたようで、なんと一度の祭祀で650人もの犠牲を用いたとの記録もあるらしい。

主神は太陽神で、犠牲に獣を用いることから、半農半牧の生活を送っていたのでは無いだろうか。比較的遷都の多いのもその辺に関係ありそうだ。


周代になると祭祀は宗廟
と社稷を祀ることになる。宗廟とは祖先を祀る祭壇で、社稷とは社という土地神と稷という穀物の神を祀る祭壇である。そして後に社稷とは国家そのものを指すようにもなるのだが、農耕で勢力を伸長したであろう周王朝に相応しい宗教感だ。

ちなみに女ヘンに帚(ほうき)で婦だが、これは一族の中で上位の女性が祖先を祀る廟を帚で掃き清める役目を担っていて、その女性を婦と呼んだかららしい。

さて、商王朝は通常の祭祀に人の犠牲を使うこともしばしばある上に、王の埋葬にも沢山の殉死者を副葬する習慣があった。

そういう理由から、犠牲の確保のために事ある毎に各地を人攫いに回ったようだ。

商の人攫い軍が訪れた邑の人々はどうしただろうか?邑をあげて抵抗したかもしれない。

商の戦争は、まず外交交渉からはじまり(この場合は人身御供を何人寄越せ、など)、決裂すると呪力によって敵の呪力を封じる呪力戦に入る。目の周りを隈取りした媚と呼ばれる巫女の出番だ。媚が相手を睨みつけ呪力で縛っているなか、実際の武力衝突に突入する。どうやら一度の戦争で3000人もの媚を動員した例もあるらしい。


戦闘初期の目標は敵の媚になる。敵の媚を殺せば自軍は呪いから解放されるし、敵は戦意が低下する。戦勝を獲るための重大なポイントである。媚を生け捕りにしたものは「蔑暦」と呼ばれ特に賞賛される。蔑とは媚を弌にかけた形を示している。

また戦いに勝って敵の土地に侵入するときは呪いを祓うために敵の首を道に晒す。道という字に首があるのはそのためだ。

かくも物騒な戦争を嫌い、観念して一定数の邑人を人身御供に差し出した所もあったかもしれない。また、命からがら逃げ出した人々も当然いただろう。


逃げ出した人々はその心理から考えて、出来るだけ遠く逃げようとしただろう。そして車を使う商の軍隊から逃げるのに川や海に逃げ場を求めた人も間違いなくいただろう。


そういう人たちが縄文晩期に日本列島に少しずつ逃げ込んで来たのではないだろうか。縄文晩期には陸稲があったことはほぼ確実らしいから何らかの理由によって大陸からの人の流入があったと考えられる。また渡来人は縄文晩期では、どうやら平和裏に列島に溶けこんだようである。そうであるなら、まとまった集団で、ある程度の準備をして来たとは考えるより、少人数で散発的に流入してきたと考える方が自然じゃないかな。

商王朝約400年間の間に幾度となく大陸からそのような人の流入があり、列島を、中でも特に九州を、大陸に対して開かれた地域とあらしめるようにしたのでは無いだろうか。


縄文晩期、この時期に中国では商周革命が起きている。

河南省の黄河流域を中心に各地の邑を祭祀による支配で勢力下に置いてきた商(殷)だが、有名な紂王の治世の時に、周によって滅ぼされる。

原因は紂と妲己の暴虐によって諸侯をはじめとする人心を失ったいうお馴染みの話や、犠牲(人を含む)を多用する呪術的祭祀の運営のため異民族(特に羌族)を襲撃して犠牲を確保していたことが、周辺の異民族の反抗の激化につながったなどの説がある。



ただ僕はもう一つの可能性のある理由も上げておきたい。

中国の研究機関の調査により、約4500年前に西アジアから中国中央部に伝わった小麦が徐々に栽培植物の主流の座を獲得していき、約3500年~2100年前の間に作付けが急増していると分析されている。

商(殷)王朝が成立したと見られる時期にはまだ小麦はいくつかある栽培植物のひとつにしか過ぎなかったようだが、周の勢力圏内で順調に作付けを伸ばし、既存の主流であったアワやイネに変わり周の国力伸張の基盤となったのではないだろうか。

小麦は畑作植物としてはアワやイネに比べ格段に優秀で、そのことは畑作穀物の現状を見れば言うまでもないと思う。

イネは水稲栽培の発明で有力な穀物となったが、当時の黄河流域のように水田経営に向かない地域では小麦の競争相手たりえなかっただろう。

周の始祖は后禝という名の人物で、帝舜のもとで農政を担当し、優れた成果をあげたと伝えられている。周という国の当時の性格を暗示している伝説と考えたりする。

小麦栽培によって培われた圧倒的な国力をもって周という国が、旧来の中心国家であった商王朝にとって変わった。こういう背景もなきにしもあらず、と僕は考えるのだ。

そういえば周は天という概念を国家の精神背景に用いていて、それは後世の中国の思想にも大きな影響を与えている。

商の神々は人との対話を持つ存在だったが、周の天は商の神々よりは人にとって遠き存在だった。

それは人々の毎日の暮らしが、神々の意志に左右されにくくなったことの現れかも知れない。

小麦栽培によって飛躍的に食料事情が向上したことが、そのような意識の変化を生んだのかも。