私のシナリオ作法 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

おお、なんか偉そうなタイトル(笑)
申し訳ありません、羊頭狗肉でございますm(__)m

今日シナリオ教室へ行ってきたんですが、これに関して思うことが少々あるために、今日はそれについて書いてみようかと。

今日提出した課題は「にくしみ」でありました。
特定の感情を、どう表現するか、という課題で、このあと「よろこび」「かなしみ」と続きます。感情シリーズですな。
で、この「にくしみ」で、今までに書いたシナリオ数が15本になりました。
半年間の基礎クラスのあとから20枚シナリオになり、それが15本になった、ということ。
まあ、15本もいろんな内容のシナリオを書いてきたんですな。えらいもんです。

1年以上やってきてますと、そろそろ、自分の書き方の癖に気づいてきます。
文体、セリフ回し、展開、設定、雰囲気などの癖はもちろん、原稿が書き上がるまでの行動パターンもだいぶかたまってきます。

東京のシナリオ・センターですと、毎週課題を提出しなくてはならないそうなんですが、私が通う教室は2週間に一度。つまり、各課題に2週間の猶予があるということです。
理想としては、最初の1週間でプロットを作って第1稿をあげ、次の1週間で推敲したい。
毎回それを目標としているのですが、これができたためしがない。
気がつけば、最初の1週間はモヤモヤと形にならないものをいくつか追いかけていて、残り1週間になってから、うまくいけば第1稿が書ける。書けない時はぎりぎりになるまで書けなくて、2,3日前に突然がちっと形が見えてきて一気に書き上げる。
そういうスタイルになっていました。

私はプロットを考えるのが苦手です。
あらすじすら考えられない。
いや、考えることは考えますよ。でも、そうやって結末までかっちり作ってしまったものは、改めてシナリオに書き起こす熱意がどっかへ消えてしまうことが多いんです。
書き始めてしまえば、ラストは見えてきますし、こうしよう、ああしよう、というアイデアが出てきますが、書き始める前にあらすじを考えたものは、どういうわけか、シナリオにならない。
つまんないっていうんですかね。自分で考えて書くものですから、ラストがわかってしまっている。どうするもこうするも、全部自分の計画どおり。
そういうのが、なんかつまらなく感じてしまうのです。具体的には「書く気が失せる」あるいは、「書くのがしんどい。億劫である」と思ってしまう。

それでも、期限がありますから、とりあえずは書いてみます。
この「とりあえず形にしてみる」って大事ですね。
目に見える形になってこそ、ここが悪い、あそこが足りないということがわかってくる。

面白いもので、自分の中でノらない話であると、途中で止まってしまいます。
展開が見えてこないし、目的地にも到達できない。この場合の「目的地」とは「こういうシーンを書きたい」とか「こんな展開にしたい」という希望をさします。

今回の場合も、最初は、「お金持ちの家庭で、異母兄弟が争う話」を考えました。
本妻の子と、不倫相手の子がいて、後者が前者もしくは父親を憎む、という話。
テレビでもよく見かけるモチーフですよね。
しかし、私には具体的なストーリーも設定も思い浮かばず、この案は早々とオクラ入り。もっと力があれば書けたのかもしれませんが。
次に浮かんだのは、小さな劇団の中での嫉妬。相手の才能に嫉妬する、という話を考えようとしたのですが、これがどうにも進まない。
どうしようとうろうろしているうちに、期限まで5日と迫ってきました。他の用事もあるので、実質使える時間は2日くらい。
さすがに焦りました。今回は間にゴールデンウィークをはさんだので3週間も時間があったのに。な~んにも思いつかないまま締め切りが迫ってきます。
そんなとき、ふと見たテレビで、興味深いモチーフを見つけました。
それが今日提出してきた「三つ編み」という話になりました。
扱っている憎しみは、日常生活の中によくある恋愛絡みの嫉妬で、まあ小さいといえば小さい「にくしみ」。それでも思いの外すっとまとまって、教室の皆さんには「面白かった」と言ってもらえました。

課題にそってシナリオを書くとき、まず最初にすることは、その課題にまつわる様々なイメージやできごとを書き出すことです。
小道具だったら、その小道具をどういう場面で使っているか、とか、その小道具そのものにまつわるエピソード、連想することなどをノートに書き出します。
あとは、ずっと頭の隅っこにその課題を置いておき、折にふれて考える。
ですから、毎回、課題にまつわることを延々考え続けていることになります。

「にくしみ」についてもいろいろ考えましたねえ。
いったい「にくしみ」ってなんだろうとか。なぜ人は憎むのか、とか。
愛と憎しみは表裏一体といいますが、ずっと考えているうちに、愛が変質したもの、それも悪い方へ変質したのが憎しみなんだなと思うようになりました。
「愛」の中には、所有欲が含まれています。相手を自分のテリトリーにいれてしまいたい。ずっとそばにいたい、とか、ずっと自分のことを思っていてほしい、とか。
それがねじれると、相手を憎むようになる。私の思い通りにならないのが我慢ならない、というわけです。
嫉妬にしたって、結局は自分の思い通りにならないことに対する苛立ちですし、ひどいことをしてきた相手を憎むというのも、つまりは自分の感情を相手が勝手に傷つけたことが許せないわけです。

最終的には「自分」なんだなあ、とつくづく思いました。
憎しみに囚われている人を見ると、どうかすると相手にものすごく執着しているように見える。
嫌なら離れればいいと思うんですが、それすら我慢できない。

なるほど、憎しみとは妄執であるな、と思い至った次第です。

次回は「よろこび」です。
これから1周間はずっと「よろこび」について考えることになるでしょう。
さて、人はいったい何に喜びを感じるものなのか。喜びとはどういう感情なのか。
どんな時に喜びを感じるのか。
いくつかアウトラインは浮かび始めていますが、さてさて、どれが形になっていくのでしょうか。
自分が書くんですけど、どこか風まかせなところがあります。
ふわっと湧いてきて、思いがけないストーリーになる。
うまく完成までいける話は、書いていてとても楽しいですし、つかの間その世界に入り込むことができます。

まだ20枚書くのがやっとなので、コンクールに出すような長いものは書けませんが、いつか長いものが書けるようになれたらいいなと思います。
まあ、本音を言えば、ずっと「生徒」でいたいんですけどね(笑)