だれのために | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

ときどき、「家族」ってなんだろうと思うことがあります。

たとえば、学校の先生、警察官、医者など、いわゆる「人のため」に働いている人達は往々にして「家族を犠牲にした」と言われるものです。

仕事仕事で、親の死に目にも会えなかったとか、子どもの教育に全然関わらなかったとかで、家族(妻や子どもなど)から非難されるわけです。


人に与えられた時間は有限でありみな同じ1日24時間1年365日です。

その時間をどう割り振るか。

教師として教え子に真剣に対峙したら1日のほとんどをそこに費やしてしまうかもしれない。警察官特に刑事などは、その職務に人生の大半を捧げてしまうかもしれない。医者だって同じです。

でも、やっていることは「ひとのため」になることばかり。

こういった職業だけじゃなく、困っている人を助けるとかそういったことで、要するに「他人のため」に自分の時間のほとんどをつぎ込んでいる人もけっこういます。

ですから「他人」から見れば大変有り難く素晴らしい人達なわけです。


でも、なぜかたいていの場合に家族からは非難されてしまう。

先程見ていたテレビ番組で、アフリカのブルキナファソという国で日本食堂を営んでいる男性が紹介されていました。この方は日本に母親、妻、息子一家を残して単身ブルキナファソへやってきて、孤児たちのための施設を建てようとしているのだそうです。番組スタッフが日本にいる奥さんに気持ちを聞いたところ、「どうしても行きたいのなら離婚届を書いていけ」と言ったそうなのです。男性は自分の分を記入していった。それくらい本気だったということなのでしょうが奥さんはまだ自分の分は記入せず持っているみたいです。「本音は早く帰ってきてほしいですね」とおっしゃってました。


「結婚すること」「家庭を持つこと」「家族になること」ってもしかしたら全然別のことなのかもしれないと思うようになりました。さらには、男性と女性ではその位置づけや意味が全然違っているんじゃないかとも思うようになりました。外で仕事をしているかどうかでもまた違うような気もするし。


現実がどうかは別として、私が思う「結婚」とか「家庭」とか「家族」というのは全部が同じような意味、位置づけです。

男と女で一つがいになり家庭を作り家族を作る。意識は常に家庭に向いていて、お互いを理解し合い尊重する。そこに違いは存在しないのです。

自分の心を探っていくと、どうも私はそんなふうに思っているらしい。でも現実はそうではないために、諦めたり斜に構えたりしてしまっているようなのです。

たとえば仕事熱心な刑事が夫だったら。教育に心血を注ぐ教師が夫だったら。あるいは仕事ですらなくて、冒険などの趣味に生きる夫だったら。

まず彼らは家には帰ってこないでしょうし、一緒に時間を過ごすこともできないでしょう。家庭内のできごとに気持ちを割く余裕も時間もなく、家族に実際に時間を使うことも少ないと思います。

現実にそういった配偶者を持つ人はけっこういると思うんですよね。んで、子どもがそういう父親を恨みに思ってたりする。

こういう人はなんで結婚したり子どもを持ったりするのかなあといつも不思議に思うんですよね。自分の時間をそこに使う気はないのに、どうして他人と関わろうとするんだろうと。そういう人たちにとっての結婚とか家庭ってなんなんだろうとずっと疑問に思っていました。今でもよくわからないんですけど、乏しい自分の経験から推測するに、そういう男性にとって「結婚」って人生におけるひとつの点にすぎないんじゃないかなと。人生ゲームにおけるマス目のように、そこに止まったら「結婚する」。「子どもができた」というマスに止まったら車に子どもを乗せる。でもただそれだけで、そのことが自分の人生のあり方に影響を及ぼすということはあんまりないんじゃないでしょうか。

私は結婚した次の日から、「家庭をいかに運営していくか」ということを、明確に言語化したわけではありませんが、一応考えてました。それは具体的には、掃除の仕方、洗濯のやり方、食事に関わる一切の業務(献立や買出しなど)をどうやりくりしていくか、などなどです。これはあえて例えるとすれば、会社や事務所を自分が中心になって立ち上げたときと似ていると思います。専業主婦だとすればまさに家庭は自分の職場になるわけですからね。よしんば共働きだったとしても同じことだでしょう。誰がその家庭の責任者になるかということですから。

しかし、夫となった男性は、対外的には「夫」という地位にはついたものの、その意識の中では1ミリも変化がないように見える。言われてみればたしかに夫ではあるが、それがなにか?という感じ。少なくとも仕事上で「夫である」ということが影響を及ぼすことはないに等しいんじゃないでしょうかね。

だから今まで通りに、自分の時間をすべて自分の為に使うことになんの疑問も持たないのではないか。私はそんなふうに思っています。

「家庭サービス」という言い方がまさにその意識を見事に表現してますよね。あえて「サービス」しなくてはならないような存在なのかと。そこには主体的に家庭に関わろうとする気持ちは全然見られません。


結婚さえしていなかったら、家族さえいなかったら、「世のため人のために働いてなんて素晴らしいんだ」と手放しで賞賛されるような行為も、家族がいるといきなり「自分かってな行為」に貶められたりします。一番理解して支えてくれてもよさそうな家族が「自分たち家族をほっぽり出して赤の他人のためにばかり働いている」と文句をいう。

自分より他の子どもの方が大切なのか、と思った教師の子どもってけっこういるんじゃないですか? 「母さんが病気になったのは仕事ばっかりしていた父さんのせいだ」と思っている子どもってほんとにいるんじゃないでしょうか。


いくらお父さんが「家族のために働いているんだ」と思っていたとしても、実際に時間を使ってくれないかぎりその思いが届くことはないような気がします。決定的に近くにいることが重要という時だってあるからです。


「世のため人のために尽くしたい」という思いは大変崇高なものだとは思いますが、どういうわけか、家庭や家族という存在とは相反してしまうことが多いのを見るにつけ、いったい「家族」ってなんなんだよと深い疑問に囚われてしまうのでありました。


現状では大変声高に「家族の重要さ」が叫ばれています。でもいったいどこが、どんなふうに重要なのか私にはわからないのです。

血のつながりだけでわかったつもりになってしまう家族。血のつながりだけでがんじがらめに縛りつけようとしてくる家族。本当にやりたいこともできないように足をひっぱる家族。家族ってだれのためにあるものなんでしょうか……。