続 見えない世界 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

昨日の記事にコメントありがとうございます。コメント欄に書こうかと思ったのですが、長くなりそうなので、新しく記事にします

たぶん、すごく怖いんだと思います。怖いから、その理由を知りたくてしつこくしつこく考えてしまうんだと思います。


昨夜、暑かったので廊下に面したドアを開け放して寝ていたのです。右向いて寝てるとその廊下は目に入らないんだけども、ふと思ったのです。

(今、この廊下をすすっと誰かが通ったら・・・)


廊下といっても、小さな家ですからほんの3mくらいです。寝ている私から見て、右は突き当りの部屋のドア、左は階段の下り口なので、左から右へ人影が動けば、娘が帰ってきた可能性があります。(突き当たりは娘の部屋)

その時間娘は外出していたので、ありえないことではない。この場合何が怖いかというと、帰ってきたはずの娘の気配がしないこと。今通ったのは何?ということになります。


もっと怖いのは右から左へ人影が動いたとき。この時点で右にある部屋には誰もいません。だれもいない部屋からでてきたものっていったい・・・・。


・・・・いやあ、しばらく怖くて廊下の方を見ることができませんでした。


この場合の「怖い」というのは、あるはずがないものを見てしまうのが怖い、ということですね。だいたい怪談というのは、あるはずのないもの、見えるはずのないものを見てしまう恐怖、というものでできていると思うのです。


さてそこで私は考える。「あるはずのないもの」「見えるはずのないもの」とは何か。

霊の世界が厳然として存在するものだとするならば、これはまったく問題にならないですよね。だって、霊はあるのだから。あるから見える。

問題はですねえ、今現在、見える人と見えない人がいる、ということです。

見える人にとっては、「だって見えてしまうんだもん」という自明のことでも、見えない人にとっては「思いこみだ」「錯覚だ」「幻覚だ」ということになってしまう。そうなると水かけ論です。


人間の、念というか、気持ち、というのはすさまじいものなのだな、と思います。

「源氏物語」にも六条の御息所という方の生霊が登場します。すごく有名な生霊ですよね。こんな昔から、そういう存在というものが考えられていた(当時の人たちは普通に信じていたと思う)ということが、なにかの証明になるような気すらします。


霊の世界があるのかないのかといえば、私はあると思いたい。

なんでこんな願望みたいな言い方になるかというと、私自身に霊感がなく、いまだかつて一度もそういった体験をしたことがないからです。なので、自信を持って「ある」と言い切ることができない。

同様に「ない」と言い切る根拠もないので、まあ、どっちかというと「あるんじゃないかな」といったところに落ち着くわけです。

世の中にたくさんある不可思議な現象について、今の科学で説明できてしまうもののあれば、どうしても説明ができないものもある。その説明がつかないものをどう理解するか。いっそのこと発想の転換をするしかないんじゃないかと思うんです。

つまり、「霊の世界は存在する」という前提で物事を見てみる。それでいろんな現象を検証するんです。なんでこの霊は見えて他のものは見えないのか。どうしてこの人たちは写真に写るのか。塩がいやなのか、気持ちがいやなのか。気持ちがいやなら砂糖でもいいのか。生霊というのはどういう仕組みでできているのか。


もしかしたら、現代物理学の根本を揺るがすようなことになるかもしれません。だって成り立ちが全然違う世界のはずなんですから。

私は本気で思っています。オカルトといわれる世界について、真剣に解き明かしてほしい、と。ただ怖がったり、頭から信じないでバカにしたりするのではなく、まじめにその法則について研究してほしい。

なぜてっぺいさんは見えてしまうのか。なぜナベちゃんさんの足に触るのか。曲を聞きにきたとして、どこから聞きつけたのか。納得のいく説明がほしいです、切に。



この世で一番初めにいた霊って、どんなのだったのでしょう。

ヒト?・・・・・ですよねえ。



最後にもう一度。

私は決して、霊の世界を否定するものではなく、この一文も、ふざけたり茶化したりする意図は全くありません。本心から、きわめて真剣に、「霊の世界を検証してほしい」と思っているのです。


それにしても・・・。

こんだけあれこれ考えて言葉にしても、怖いものは怖いですわ。

一瞬背筋がぞぞぞぞっとしますものね。叫び