食の真実③ 日本人の不向き食品の裏 | 世界の真実 地球レベルで地球をよくしていく為のブログ

世界の真実 地球レベルで地球をよくしていく為のブログ

人生のターニングポインター真鬼です(^^)

(日月神示をベースに気付き きっかけを発信してます)

地球レベルで地球を
良くしていくためには?
を課題に活動してます

人生のステージを上げていく為に何を知り何を学び何に活かすのか?

日月神示TV(YouTubeみてね)

この日本への食糧戦略の構図をよく考えると、歴史の中で、1760年代のイギリスに始まった産業革命後の、イギリスの中国政策を彷佛(ほうふつ)とさせるではないか。


 イギリスで起った産業革命の中心は、「機械の発明とその使用」において、四大発明の一つであった紡績織布機がその花形であった。 



当時のイギリスの主要な工業は最初、羊毛工業であったが、地理上の発見以後、東インド会社がインド製の綿織物をイギリス本国に齎(もたら)すようになると、綿織物の需要が増大し、国内でも木綿工業が発達した。



 また資本主義が確立され、同時に、1820年頃にイギリスの産業革命は完了するのである。新しい工場制機械生産が圧倒的な力を持ち、工業生産力が著しく増大するのである。



そして1850~70年代にかけて、イギリスは「世界の工場」としての黄金時代を迎えるのである。 ロンドンは世界経済ならびに金融の中心となり、1851年と62年に開催された万国博覧会では、イギリスの経済的実力が世界に誇示された時期であった。



 さて、この流れの中で、見逃してはならないのが、1840~42年にかけて起った阿片戦争である。 


十九世紀前半、イギリスが中国・広東で買い付ける茶や絹の量は著しく増大した。 一方、これに対し、中国の需要する物資は極めて少なかった。



この為に、イギリスが中国に支払う銀は巨額に上り、この片貿易の損失を補う為に、インド産の阿片が中国に向かって輸出された。 



阿片貿易は猛烈な勢いで発展し、1833年、東インド会社による中国貿易の独占廃止後は、イギリス本国の自由貿易商人が中国の阿片販売に殺到した。その阿片量は益々増大し、中国の茶と絹はイギリス本国へ、本国製品をインドへ、インド産の阿片を中国へ運ぶ「三角貿易」が確立した。



そして中国への阿片の量は、年々急増していったのである。 1839年、かねてより阿片貿易に対して強硬政策を主張した、清朝政府の欽差大臣(きんさ‐だいじん/官制に定めのない臨時特設の官職)だった林則徐(りん‐そくじょ)は、広東に派遣されるとイギリス側所有の阿片を強制的に没収する策に転じた。



その上で、イギリスの貿易監督官に輸入禁止を求めたのである。 これに対して、イギリスは「女王陛下の名誉が傷つけられた」として、武力で貿易の障害を取り除こうとしたのである。



これが阿片戦争であった。 阿片戦争の経緯(いきさつ)を追うと、イギリスで起った産業革命により、工業生産力が著しく増大し、その綿製品などの市場が、当時世界最大の人口を誇っていた中国であった。



しかし、当時の中国は貧しく、イギリスが目論んだ程、期待する綿製品の市場開拓は捗々(はかばか)しくなかった。更に、中国に対して支払う銀は巨額であり、まさに片貿易の観があった。



そこで、この損失を補填する為に、インド産の阿片が持ち込まれたわけである。 



これを日本の「55年体制」前後の時代に置き換えると、幾つかの共通点を見い出すことができる。



 それは第二次世界大戦後、世界的規模で農作物は大豊作であり、アメリカに於てはそれが著しく、小麦、綿花、乳製品と言ったものは莫大なストックを抱え込んで、だぶついていたのである。



 そのだぶつきの捌け口が、日本と言う新しい食物市場であった。 



その戦略には、まず親米派の学者や文化人が導入され、「米叩き」が展開されて、次に食の実演としてキッチンカーが導入された。



小麦を使ったパン料理が、各地で料理講習会として展開されていたのである。



また、学校給食にも、拡大策が設けられ、パン産業の育成を図る政策が打出され、ここに日本人のパンによる食生活が根付くことになるのである。



 ある意味で、中国に持ち込まれた阿片を彷佛とさせるではないか。



 パンを食べれば、それに合うものは、まず「油物」である。



食肉食肉加工食品牛乳乳製品などの食物が当然のように多くなり、同時にこれまで日本人が食べていた味噌汁や漬け物と云った食品は食卓から姿を消すことになる。





そして、食卓はこれを機に、「油だらけになる」という現象が起るのである。 



しかし、この「油だらけ」というその裏には、実は日本人が成人病に発症するという病魔が隠れ潜んでいたのである。



つまり、日本人の不向きである食品から、生活習慣病が多発するという元凶があったのである。 



この元凶こそ、口から入る「食原病」の始まりであった。




つづく