蕎麦 Ⅻ【外】かしわ蕎麦 鰊(にしん)蕎麦 唐揚げそば そ…

 

蕎麦湯

蕎麦湯(そばゆ)とは、蕎麦を茹でた後に釜の中に残る湯、つまり、蕎麦の茹で汁のことである。蕎麦を茹でると、蕎麦粉などが湯の中に散らばってゆき、結果、蕎麦を茹でれば茹でるほど徐々に湯が濁ってくる。あまりにも濁りが濃くなってくると、茹でている最中に蕎麦同士がくっつきやすくなる他、場合によっては蕎麦の風味が変わることもある[71]。このため、蕎麦を供する店舗のように、同じ釜の中で蕎麦を次々と茹で上げる場合は、これが濃くなり過ぎないように、蕎麦の茹で汁の一部を釜の中から取り出して、新たに湯を加える必要に迫られる。この時、取り出した蕎麦の茹で汁が、蕎麦屋で供される蕎麦湯である[72]。なお、蕎麦湯の定義からも明らかなように、家庭の鍋で蕎麦を茹でた後、鍋の中に残った湯も蕎麦湯に他ならない。

蕎麦湯の入った湯桶

蕎麦を提供する店舗の場合、蕎麦湯は浸け麺の蕎麦に添えて湯桶などで飲用に、通常は無料で出す。客は、蕎麦湯を残った蕎麦つゆに湯桶から注ぎ入れて割り、最後の締めに飲む。蕎麦を食べ終わる時間を見計らって蕎麦湯の湯桶を時間差で持ってくる店が多いが、蕎麦と同時に持ってくる店もある。蕎麦つゆと割らず蕎麦湯のみを飲む人もいる。残った蕎麦つゆをいったん捨てて、新しい蕎麦つゆと蕎麦湯を割って飲む人もいる。なお、通常温かい蕎麦に蕎麦湯は添えて出されないが江戸そばのように特に濃い蕎麦つゆを飲みたい場合、店によっては注文すれば応じてくれる場合もある。

蕎麦湯の文献上の初出は元禄10年(1697年)の 人見必大による『本朝食鑑』であるとされる。そこに「呼蕎麦切之煮湯稱蕎麦湯而言喫蕎切後不飲此湯必被中傷若雖多食飽脹飲此湯則無害然未試之」(蕎麦切りを食べた後で蕎麦湯を飲まねば病気になる、また過食して腹が飽脹しても蕎麦湯を飲めば害がないというが試したことはない)と伝聞調の記述が見られる。また、寛延4年(1751年)の日新舎友蕎子による『蕎麦全書』の中に「先年所用の事ありて信州諏訪を通る事有り。信濃そばとて名物を聞居ければ、旅宿にてそばを所望せしに、其そば製大きによし。成程名物程の事有り。然るにそば後直に蕎麦湯を出して飲しむ」という記述がある。そこでは「そば後直に蕎麦湯を飲む時は食するそば直に下腹に落着て、たとえ過食すとも胸透きて腹意大きによろしき物也」と整腸作用のために飲むと説明されている[73]。直前に「江戸にてはそば切を人に振舞時、そばの後、定って吸物とて豆腐の味噌煮を出す。能麺毒を解すと云伝ふ」ともあるように、この時代には麺類は毒という考え方が存在していた事も確認できる。また薬膳では蕎麦は涼寒性食品、新舎友蕎子が蕎麦を微寒と記しているほか諺に“蕎麦食ったら 腹あぶれ”というものもあり、冷たい蕎麦を食べた後に温かくする事が病気予防になるとされていた事が伺える。俳句の世界における蕎麦湯は歳時記に冬の季語として紹介されている[74][75]。これは蕎麦切りの茹で湯という副産物ではなく、前述の蕎麦湯の文献上の初出の時代には大変貴重な砂糖と蕎麦粉を溶いた蕎麦がき状のものを指し、和菓子の文脈に近い、似て異なるものであったと考えられる。ただし、こちらの解釈でも体を温めるものという認識があった事は伺える。

医学の発達した現代には文献上に見られる整腸作用のためよりは、冷やしの蕎麦つゆの味覚を楽しむという目的に変っていった。その場合はそのまま飲むには味が濃いので、蕎麦湯で割って飲むことで出汁かえしの風味を楽しむという理由付けである[76]。しかし、塩分のとりすぎが日本人の高血圧症の原因であると指摘されるようになって以降、蕎麦つゆで割った蕎麦湯の塩分に注意する旨の表示も見られ、蕎麦湯のみを飲む人も増えてきた。そういうことから、蕎麦湯に残った蕎麦の余韻、蕎麦湯そのものを味わう楽しみにも焦点があてられるようになった。名水が有名な地方などでは、ゆで湯の水の味を重視して良質な水をゆで湯に使用して蕎麦粉の濃度は低い蕎麦湯を出す店もある。

蕎麦湯の濃度は、朝の開店直後の店や釜の容量の割に客の入りが安定した予約制のような形態の店では沈殿が少なく蕎麦湯はサラッと薄く、時間帯によって行列の出来るような釜の容量に対して客の入りが飽和しがちな店では茹で湯を交換していると適切な温度の調整が難しく歩留まりが悪くなるためピーク時には濃くなる傾向がある。また初心者の自家製麺にありがちな、加水が不適切で打ち粉が過剰に必要だった蕎麦を茹でた場合には、茹で回数が少なくとも打ち粉が沈殿した蕎麦湯になる。元々蕎麦屋における蕎麦湯は、朝の営業開始から時間が経過して何度も蕎麦が茹であげられた釜に澱粉質などが溶け出して、茹で湯に適さなくなった所で半分交換(半抜き)する際に出来るものであり一人前ごとに濃度の高い蕎麦湯は出来るものでない。ところが、営業時間に関係なくドロッと白濁した濃い蕎麦湯を好む客も多くがサラッと薄い蕎麦湯に文句を言ったり、蕎麦屋の店主が蕎麦湯好きでこだわりが高じて、わざわざゆで湯を煮詰めたり、蕎麦粉や小麦粉を溶かし込んでわざわざ濃い蕎麦湯を作る店もある。

なお、蕎麦湯に水溶性の栄養分が溶け出しているために蕎麦湯を飲むという説[77]があるが、ルチンについては不溶性なので食品添加物としてα-グリコシル-ルチンを加えていない限り蕎麦湯から摂取しようとする方法は現実的ではない。他の栄養素に関しては、生そばの場合は蕎麦の茹で時間が30-60秒と極めて短く、溶け出す量は限られるので開店直後の蕎麦屋の釜や家庭の鍋から汲み上げた蕎麦湯に溶け出している栄養素には期待できないが、朝の開店から時間が経過した蕎麦屋で半抜きのために釜から汲み上げた濃度の高い蕎麦湯には澱粉質、たんぱく質が蓄積されている。前述のように、サラッと薄い蕎麦湯に文句を言う客のためであるとか店主のこだわりにより蕎麦粉などを溶かし込んでいる場合も結果的には同様の成分になる。冷えた蕎麦を食べた後で澱粉質により葛湯のようにとろみがついた暖かい蕎麦湯を飲む事で体が温まる事も健康に寄与すると考えられる。

酒類を提供している蕎麦屋の一部では、そば焼酎(乙類)を蕎麦湯で割ったものを「蕎麦湯割り」として提供する店がある[81]。家庭などで、そば焼酎の楽しみ方として紹介される場合は、出来上がりを安定させるために蕎麦粉を溶いて作った蕎麦湯が用いられるほか、蕎麦湯に梅干を加える飲み方もある[82]

蕎麦屋

蕎麦屋店内の例

通常、蕎麦を食わせる店は蕎麦の専門店、もしくは蕎麦とうどんのみを扱う店であることが多く、これを蕎麦屋(そばや)という。蕎麦屋は江戸時代中期ごろから見られる商売で、会席鰻屋に比べると安価で庶民的とされる。蕎麦が好まれる江戸には特にその数が多く、関東大震災以前は各町内に一軒もしくは二軒の蕎麦屋があるのが普通だった。

蕎麦屋の文献上の記載は、文政12年(1829年)の文政町方書上に蕎麦屋が3軒あったと記載されているうちの1軒が寛永18年(1642年)から店を構えていたとされる。屋台形式の移動店舗は江戸時代後期に書かれた『三省録』・『近世風俗志』・『昔々物語』等に、寛文4年(1664年)に「けんどん蕎麦切」の店が現れたとの記述がある。また、貞享3年(1686年)に江戸幕府より出された夜間の煮売り禁止対象に「うどんや蕎麦切りなどの火を持ち歩く商売」という意味の記載があり、寛文10年(1670年)のお触書には記載が無いことから以降の16年で夜間の屋台販売を代表する存在になっていった事が伺える。これらの屋台形式の蕎麦屋は、時代や業態によって二八蕎麦・夜鷹蕎麦・風鈴蕎麦などとも呼ばれた。

蕎麦屋発祥の年表[83]
西暦 年号 文献 記載
1642 寛永18 文政町方書上(1829/文政12) 「蕎麦を出す店が3軒ある」(うち2店は寛永より営業、大田屋は寛永18年(1642年)には店売りをしていたとされる)
1659 万治2 東海道名所記 「東海道中に4軒のうどん・蕎麦を出す茶屋がある」「京都の遊郭島原の茶屋で饂飩・蕎麦を売っている」
1662 寛文2 洞房語園(1720/享保5) 「寛文2年から後、江戸町二丁目の仁左衛門がけんどん蕎麦を銀目五分で売り始めた」
1664 寛文4 昔々物語(1689/元禄2) 「けんどんうどん・蕎麦切りが出来た」
1676 延宝4 日次紀事 「京都では9月から翌年1月にかけて夜そば売りが行われる」
1686 貞享3 幕府御触書 「蕎麦切りを含む夜中の煮売り禁止」(寛文10年の御触書には蕎麦切りの記載が無い)
1690 元禄3 東海道分間絵図 東海道中に蕎麦切り専門の茶屋が21ヵ所描かれている
1692 元禄5 万買物調方記 「江戸にはけんどん屋(提重)が5軒ある」と記載されている(けんどん箱の上位版が提重)

蕎麦切り自体は、保科正之の高遠そば、仙石政明の出石そば、本山宿における大名への献上記録、将軍家に献上された武鑑の記録などから身分の高い人物でも食べるものになっていた。しかし、江戸時代の蕎麦屋は庶民のための店であり、武家公家などの間では人目につく蕎麦屋で外食する機会がなかった。有職故実の大家だった伊勢貞丈の『貞丈雑記』にて「古くありし物なれ共、表向などへ出さざる物故、喰様の方式なども記さざるなるべし」と記している。これは、蕎麦切りをマナーで縛るような記述を避けたとも考えられる。ところが『三省録』では「下賎のものは買ひて食ひしが、小身にても御旗本の面々調へて(=買って)食ふことなし、近年いつとなく、調へて食う様には成りたり」と記しており“武士は食わねど高楊枝”さながらに、かつては生活が苦しくとも旗本となれば蕎麦屋で食べることなどなかったが最近では食べるようになったようだと記している。このことから、少なくとも伊勢貞丈の没年である天明4年(1784年)から『三省録』の天保14年(1843年)の版の60年の間には武家も蕎麦屋に来店していたと推測される。武士の意識変化だけではなく、蕎麦屋の店構えにも変化があったためとも考えられる。もっとも『寺坂信行筆記』に元禄15年(1703年)12月14日の赤穂事件の折、集合場所に向かう前に「亀田屋」という店で数名が蕎麦切りを食べたと記されている点から家督や作法を重んじる必要の無い職位の武士・浪人は以前から蕎麦屋に来店したようである。

近代の蕎麦屋には、蕎麦を中心に品数があまり多くなくを飲ませることを念頭においた発展をしている店がある。そのような蕎麦屋の酒を「蕎麦前」と称する。現在でも同程度の蕎麦屋とうどん屋を比べると、出す酒の種類は蕎麦屋のほうが多いのが普通である。主なメニューは、各種の蕎麦や酒のほかに、種物(たねもの)の種だけを酒の肴として供する抜き(ヌキ、天ぷらかしわ、鴨、卵、など、天ぬきの項も参照)や蒲鉾=「板わさ」、わさび芋、焼海苔、厚焼き玉子、はじかみショウガと味噌、また場合によっては親子丼などのものなど。また店によっては、茹でた蕎麦を油で揚げた揚げ蕎麦が品書きにあることもある。これは箸休め、あるいは乾き物として酒肴にされる。

太平洋戦争以前の蕎麦屋には、蕎麦を食べる以外のさまざまな用途があった。まず、町内の人間がの帰りなどに気軽に立ち寄り、蕎麦を手繰ってゆく格式ばったところが無い店である。またその一方で現在の喫茶店のように、家に連れてきにくい客と会ったり、待ち合わせをしたりする場合にも用いられた。たいてい一階が入れこみ、二階が小座敷になっていることが多く、二階は込み入った相談、男女の逢引、大勢での集まりなどにも用いられたという。戦後はこうした雰囲気も徐々に薄れてきたが、今も静かな雰囲気で風情を楽しむことができる店も存在する。

ウィキメディア・コモンズには、蕎麦屋に関連するカテゴリがあります。

蕎麦屋には出前という宅配サービスを提供している店がある。もとより蕎麦は長時間の持ち運びに適さない食物であるが、むかしは蕎麦屋の数が多く、出前の範囲も比較的狭かったために、蕎麦は店屋物の代表格だった。ちょっとした客をもてなすために、あるいは年越し蕎麦を一家で食べるために、町内の蕎麦屋から出前を取る風習は江戸時代から見られるものである。このためには岡持ち(おかもち)と呼ばれる取っ手のついた箱型の道具が用いられ、たいていは店の使い走りが蕎麦を出前し、後で丼や蒸籠などの器を引き取りにゆくことが多かった。戦後は自転車オートバイを利用することも多く、高く積み重ねた蒸籠を曲芸さながら肩に担いで片手でハンドルを握る姿は、当時の蕎麦屋の象徴でもあった。ホンダのスーパーカブは、この蕎麦屋の出前の片手運転に使えるよう、クラッチレバーを廃した設計としたという逸話も残っている。現在、オートバイでは出前機を用いる方法が普通になり、蒸籠担ぎの曲芸はあまり見られなくなった。勘定はかつては空き丼を回収するときに支払ったが、現在は配達時に支払う。

また、鉄道駅やその周辺地域、ビジネス街などの市街地商業地域、あるいは遊園地、野球場や競馬場などの遊興施設などにて、客が店内のカウンターで立ったまま食べる(立ち食い)・簡易椅子に腰掛けて食べるスタイルの営業形態を基本とした蕎麦屋「立ち食い蕎麦屋」も多数存在する。

江戸時代、浅草の称往院境内にあった道光庵という塔頭の僧がそば打ちの名人で、当時のそばの番付で上位の常連になるなど有名になったため、称往院には「そば切り寺」の異名がついた。そば屋の屋号に「庵」をつけるものがあるのはその名残である[84]

日本各地での蕎麦文化