歴史地震 Ⅰ【冒頭】安政の大地震絵図 目次 古文書の調査 …

 
 

震央および震源域

推定震度分布から、おおよその震央が推定される。また強震域の分布を近代に発生した地震と比較することにより、おおよその震源域の推定が可能である。しかし記録の欠損により正しい震央や震源域が不明であるものも少なくない。

白鳳地震は古記録には飛鳥周辺と思われる被害の様相と、伊予および土佐の地変、漠然と諸国に大被害が発生したと記されているのみである。しかし、より詳細な記録を有する宝永地震や安政南海地震の記録と付き合わせることにより、ほぼ同様の地殻変動が生じているものと推定され[27]、さらに近代的観測記録を有する1944年東南海地震および1946年南海地震の地盤変動の水準測量結果を比較することにより、繰り返し発生している南海地震であると推定された[28]。さらに、東海地方の遺跡の発掘調査による液状化痕、海岸の地質調査からほぼ同時期に東海東南海地震も連動したと推定され、震源域がさらに広い可能性がある[5]

869年貞観地震は漠然と陸奥国地大震動、津波が内陸まで遡上したと読める記録があり、歴史資料の調査あるいは、仙台平野のトレンチ調査により、9世紀頃、およびさらに幾層かの有史以前の津波堆積物が内陸まで達していることが明らかになっていた。しかし明治三陸地震よりも甚大な津波が発生したことを示唆するもので、ここまで内陸に達する津波記録は近代では存在せず、この地震の実体は不明な点が多いとされていた。産業技術総合研究所による数値実験解析によりM8.4の巨大地震と推定されたが[32][33]東北地方太平洋沖地震の発生はこの地震の全容解明のきっかけとなり、ほぼ同域の広い範囲を震源域とする類似した地震であると考えられるようになった[34][35]

1099年康和地震は、もともと摂津大和の記録しか存在せず畿内付近が震央とされていたが、土佐の田畑の沈降記録が発見され、より広い範囲を震源域とする南海地震と推定されることとなった[36]

1703年元禄地震関東南部の広い範囲に強い震動と沿岸に強大な津波をもたらしているが、房総半島の隆起記録は1923年関東地震に類似し、これにより相模トラフのプレート間地震と推定され、津波、隆起の規模はより大きいものであった[13]。この4年後に宝永地震が発生するなど、過去においても巨大地震が時間的に接近して続発する例がしばしば見られる。

津波の規模

下地島帯岩八重山地震の津波で打ち上げられたとされる。

宝永地震や安政地震などでは、地震後暫くして強大な津波が襲来し、その回数、第何波が最大であったか、津波襲来の継続時間など詳細な記録が残る。また津波の遡上範囲とその標高および家屋の流失範囲、あるいは神社寺院石段の浸水の段数などの記録により遡上高を見積もることが可能である[14][37]

沿岸の浦々の津波遡上高の分布から凡その震源域、また断層モデルの推定も行われる[38][39]

宝永地震の津波は済州島上海に被害をもたらした記録があり[40]、安政東海地震の津波はサンフランシスコ験潮所で記録されている[13][41]

沿岸で観測された最大の高さと被害の発生した沿岸長に基づいて津波の階級 m (0 - 4) が提案されている[42]。これに小規模で被害は及ぼさないが頻度の高い規模として「-1」を加え、エネルギーと関連付けた「今村飯田の津波規模階級」も提唱された[43]。最大の m = 4 とされているものは869年貞観地震、1611年慶長三陸地震、1707年宝永地震、1771年八重山地震、1896年明治三陸地震[44]、2011年東北地方太平洋沖地震[20]、1586年ペルー地震、1700年カスケード地震、1730年チリ地震、1868年アリカ地震、1877年イキケ地震、1946年アリューシャン地震、1960年チリ地震、1964年アラスカ地震[45]などである。

マグニチュード