うどん Ⅳ【上】料理方法や食べ方による種類 比内高地鶏餡か…
日本国内における地方のうどん
小麦の生産される土壌、気候、醤油などの醸造業や漁業などの地場産業、流通を担う商人などの存在により、その地域独特の郷土料理となっているもの、また村おこしの一環として地域の名物となったものなどさまざまな種類がある。
豪雪うどん
じゃが芋の一大生産地である北海道羊蹄山麓で、昔から農家の家庭食として「でんぷんうどん」なるものが食べられてきた。じゃが芋のでん粉と小麦粉などの配合を調整し、時間がたっても美味しく食べられるように改良されたもの。羊蹄山麓が豪雪地帯であること、麺の見た目が雪を連想させる半透明であることが、「豪雪うどん」の名前の由来。
稲庭(いなにわ)うどん
詳細は「稲庭うどん」を参照
稲庭うどん
秋田県南部の手延べ製法の乾麺。日本三大うどんのひとつに数えられる。
甘ったれうどん
宮城県蔵王町で作られている。小麦は北海道産が使われている。麺に細かく刻んだ葱を散らし、上に卵黄を乗せ、甘みのあるタレを使ってかき混ぜて食べる。
ひっぱりうどん
詳細は「ひっぱりうどん」を参照
山形県の郷土料理。茹でた麺に納豆やサバ缶などを混ぜて作ったたれを使って食べる。「ひきずりうどん」とも呼ばれている。
おっきりこみ
詳細は「おっきりこみ」を参照
二毛作による粉食文化のある群馬県・埼玉県北部・秩父地方の麺の入った野菜煮込み料理。
上州うどん
桐生うどん
詳細は「桐生うどん」を参照
群馬県桐生市を中心とした地域で食べられているもので、麺はやや太め。群馬県東部の東毛地方は小麦の産地であり[29]、桐生市周辺は製麺業が盛んである。「ひもかわ」と呼ばれる幅広な麺も使用される。ざるうどんのほか、「✖✖うどん」として食べられる。
館林のうどん
群馬県館林市は日清製粉グループ本社の前身の「館林製粉」発祥の地であり、東毛地方は小麦の産地であることから、歴史的にうどん食文化があった(江戸時代中頃より館林藩の名物として将軍家に献上されたとの記録がある)。1994年(平成6年)より町おこしの観光資源として活用されている。乾麺が中心となっており、特徴としては変わりうどんが多数あること。
水沢うどん
詳細は「水沢うどん」を参照
群馬県渋川市伊香保町水沢特産。生地を捏ねてから伸ばすまでの間に、熟成期間があり、こしがあるのが特徴。
耳うどん
詳細は「耳うどん」を参照
耳うどん
栃木県佐野市(旧葛生町)仙波における郷土料理で、耳の形をしたすいとんのような塊状の麺を使用する。
加須うどん
詳細は「加須うどん」を参照
埼玉県加須市で食べられ郷土料理で、門前うどんでもある。
冷汁うどん
冷汁うどん
詳細は「冷汁うどん」を参照
埼玉県秩父市など(県西部)、さいたま市、川越市、加須市周辺で、主に夏に食される家庭料理ともなっている。つけ汁はすり胡麻や味噌による味が主であり、他に野菜などを入れる。すりたての胡麻を元とする方言で「すったて」「つったて」とも呼ぶ。
武蔵野うどん
詳細は「武蔵野うどん」を参照
武蔵野うどん
かつての武蔵国地域を中心とした伝統的料理。地粉を使ったゴワゴワしてコシが強く黒っぽい麺が多い。かつては小麦の生産が多かったために広く作られ食べられていた。この地域の旧家では冠婚葬祭には必ず出たという。
一本うどん
詳細は「一本うどん」を参照
一本うどん
一本うどん(いっぽんうどん)は、通常のものと比べて、極めて太い麺を使用する。かつての江戸や京都、名古屋で存在していたが、製法が難しく途絶えていた。近年、埼玉県羽生市や京都で復活をさせ、名物としている。
ほうとう
詳細は「ほうとう」を参照
山梨県全域で作られる郷土料理。かぼちゃや根菜類など季節野菜を主体とした味噌汁に、生地に塩を練りこまずコシを作らない状態で幅広に切った麺を、打ち粉が付いたままの生状態から入れて煮込む。またこの調理法のために汁にとろみがある。おやきやおねりと言った粉食料理の範疇と捉えられており、一般にはうどんの範疇とは認知されてはいない。
煮ぼうとう
詳細は「煮ぼうとう」を参照
煮ぼうとう
「煮ぼうとう」は、埼玉県深谷を中心とした郷土料理。幅広の麺(およそ2.5cm、厚さ1.5mm程度)と、深谷ねぎ、根菜類を使い、生めんの状態から煮込む。生めんから煮込むことで、適度な「とろみ」がある。山梨県のほうとうとの違いはほうとうが味噌味であることに対し、しょうゆで味をつけることが特徴である。また煮ぼうとうにはかぼちゃを入れないのが一般的である。2007年には山梨県のほうとうに対してどちらが「ほうとうの本家」であるかをかけ対決を挑んでいる。
きしめん
詳細は「きしめん」を参照
愛知県の代表的な郷土料理で、麺の形状が平たい。
ひもかわ
ひもかわうどん(幅 およそ15cmのもの)
詳細は「ひもかわ」を参照
群馬県桐生地域の代表的な郷土料理で、麺の形状が平たい。麺の幅は5.0mmから15cmを超えるものまで様々なものが存在する。
吉田のうどん
詳細は「吉田のうどん」を参照
山梨県富士吉田市で作られる郷土料理。非常に強い固さと太さを特徴としており、すすれない、噛み切れないほどである。煮干や鰹節を出汁とした味噌あるいは醤油味の汁で食べる。キャベツと馬肉が入れられ、各店特製のすりだね(調製唐辛子)が用意されている。富士北麓の当地は、冷涼な気候と溶岩台地の地理的条件から稲作が困難で、水掛麦による麦作が行われ伝統的に粉食料理が食べられていた。
おしぼりうどん
詳細は「おしぼりうどん」を参照
長野県埴科郡坂城町周辺で作られる料理。ねずみ大根という辛い大根をすりおろした汁に信州味噌を溶かしたつゆにつけて食べる。
おにかけ(オセーメン・オトウジ)
長野県佐久地方の、野菜や竹輪や鶏肉などを入れた煮込料理で、味噌汁のうわずみを用いる。おかわりの麺を椀から椀に移して食べることを「オセーメン」と言う。また、柄の長い竹かごで麺を茹で、椀に移しながら食べることを「オトウジ」と言う。
氷見うどん
詳細は「氷見うどん」を参照
富山県氷見市で作られる、手延べの細麺が特徴。加賀藩献上御用として藩政期より250年以上の歴史があり[39]、秋田の稲庭のように、油を塗らずに延ばしていく。また、手打ちのように足踏みを行うのも特長の1つである。
小松うどん
詳細は「小松うどん」を参照
石川県小松市で作られる、細麺で、のどごしが特徴。加賀藩が名物として大名へ献上品としている歴史がある。普通は足で踏んで練るところを特別に手で練り、炭火で乾燥した。実際には生うどんが食されており、明治以降昭和初期までは各店が自家製麺を作っており、生麺と自家製だしの相性が特徴であることが評判を呼んだ。復興させようと、70店舗ほどで提供されている。
ころ(香露)うどん[編集]
詳細は「香露」を参照
名古屋を中心とした中京圏では冷やしうどんを「ころ」と称し、うどんをきしめんに変えたものは「きしころ」と称する。
伊勢うどん[編集]
詳細は「伊勢うどん」を参照
伊勢うどん
三重県伊勢市周辺に伝わる、柔らかくゆでた極太の麺に黒く濃厚なタレを絡めて食べる[28]。
京うどん[編集]
京うどん(はいからうどん)
京都の家庭や店で食べられており、だしに強くこだわり、麺は細い麺をコシがなくクタクタになるまで煮て箸で麺を持ち上げると切れるくらいにするのが特徴。ただし、それ以外決めごとはないのでお店で出されているものに統一感が無い[27]。
こぶうどん[編集]
京阪神の店では、よく見られるメニュー。「とろろ昆布」、あるいは「おぼろ昆布」を乗せて供する。近畿では昆布を「こぶ」と呼ぶことが多く、メニューにおいても「こんぶうどん」ではなく「こぶうどん」と表記される。「とろろうどん」「おぼろうどん」と呼ばれることもある。
かす汁うどん
酒造地帯である灘五郷を中心とするエリアで冬季限定で提供する店があり、酒粕を用いた粕汁ベースの料理。専門店よりも定食屋で多く見られるメニューである。
かすうどん
西日本で、特に大阪府南部の松原市、羽曳野市、藤井寺市などで食べられてきた。トッピングとして細切れにした「油かす」が用いられ独特の風味がある。2000年代に入ってから、メインに提供するチェーン店が増えている。
ホルモンうどん
大阪市の新今宮駅周辺にみられる、ホルモンの煮込みを具材としたもの。牛のフワ(肺)が主に用いられる。
備中うどん
詳細は「備中手延べ麺#備中うどん」を参照
鴨方うどん、備中鴨方うどん、かも川うどんとも呼ばれる、岡山県浅口市鴨方町およびその周辺で作られる麺の名称で、料理名ではない。この地域は、古くから手延乾麺の産地であり、手延そうめんや手延ひやむぎとともに手延うどんも製造されている。とくに手延べうどん麺に関しては、生産量は日本一である。
倉敷のぶっかけうどん
詳細は「ぶっかけうどん」を参照
江戸時代、天領だった倉敷に来た代官に差し出されたものが原型という説がある[41]。江戸の蕎麦を由来とする汁であるため、讃岐など他近辺地域のぶっかけうどんよりも濃く甘味が強い汁で、また具が多めである。古くからこの地で食べられていた郷土料理だったが、地元店が倉敷名物として売り出し、定着した。
しのうどん
しのうどん
詳細は「しのうどん」を参照
岡山県倉敷市の玉島にある曹洞宗の名刹・円通寺の修行僧が、江戸時代に食していた「一筋一椀」の別称。
鳴門うどん
徳島県鳴門市を中心に食べられている。藩政時代から昭和後期までは塩田地帯として栄えたが、塩田での重労働を終えた人々向けに、こなれのよい食物として提供されたものとされていた。コシのほとんどない細麺で、だしは煮干しなどを用いたあっさりしたもの。具は細かく刻んだ葱・竹輪・油揚げなど。市では写真家の中野晃治が命名した「鳴ちゅる(なるちゅる)うどん」と言う呼称を使って宣伝を行っている。
たらいうどん
たらいうどん店の立地する宮川内谷川源流部
徳島県北東部の阿波市土成地区の郷土料理。ゆで汁ごと大きなたらいにあけ、そのたらいを数人で囲み、つけ汁に付けて食べる。元々は川魚(じんぞく:カワヨシノボリの地方名)で取った出汁がつけ汁に使われていたが、近年は漁獲が減り食べられる店は少ない。江戸末期に宮川内谷のきこりが河原に作ったかまどでゆで、川魚で出汁をとり食べたのがルーツとされる。
讃岐うどん
詳細は「讃岐うどん」を参照
香川県は、全国で県民一人あたり消費量トップである。また人口は都道府県別で40位であるにもかかわらず、うどん用小麦粉使用量で2位の埼玉県の2倍以上の使用量で全国一位となっている。町おこしの一環で、香川県を『うどん県』と呼ぶほど、食文化に根付いた地域である。讃岐うどんと呼ばれていて、トッピングや食べ方は多種多様であるが、弾力のあるコシと滑らかな食感が特徴である。
鍋ホルうどん
香川県多度津町で食べられている。元々国鉄多度津工場の労働者向けに精肉店がつくっていた鍋ホルモンの「しめ」として作られたのが始まりとされている。
博多うどん(福岡うどん)
福岡のごぼ天うどん
福岡・北九州方面で食べられている、腰が弱めで柔らかいものが一般的。汁は昆布・鰹節・うるめ・鯖節・いりこ・あじこ・あご(トビウオ)等を使用し薄口醤油で仕上げる。具としては「丸天」や「ごぼ天」が一般的である。薬味として柚子胡椒が用意されている店も多い。
丸天うどん
福岡県を中心とした地域で食べられている。薩摩揚げに類似する、魚のすり身を円形にして油で揚げた練り物(揚げ蒲鉾)が載っている。当地では揚げ蒲鉾一般のことも「天ぷら」と称することに由来する。九州地方では、「天ぷらうどん」のことを指す場合がある。
ごぼう天うどん(ごぼ天うどん)
詳細は「博多うどん」を参照
福岡県を中心にした地域で食べられている。笹がきごぼうをかき揚げにした(もしくはバラバラに揚がった)天ぷらが乗っているもので、九州北部地方の大方の店舗で扱っている。
かしわうどん
鳥栖駅のかしわうどん
福岡県を中心とした九州北部では定番の、鶏肉の出汁に鶏肉のそぼろ(西日本では鶏肉をかしわと呼ぶ)を散らしたもの。特に駅弁のかしわめしで有名なJR九州小倉駅から折尾駅、博多駅を経て鳥栖駅にかけての駅立ち食いうどん店では、かしわがトッピングされているものが標準的(つまり「かしわうどん」が、かけうどんのような立場である)。逆に店舗を経営している企業によっては、かしわうどんが存在しない、かけうどんにはトッピングがされない場合もある。大分県などでは鶏肉を煮付けたブロック状のものが載せられたものを指す。
五島うどん
長崎県五島列島で産する乾麺。厚めに丸く伸ばした生地を鎌で渦巻き状に切り出した後(この工程から「鎌切りうどん」とも言われる)、そうめんや稲庭うどんのような手延べ製法で作られる。このため通常より細麺で断面が丸いのが特徴。手延べの際に粉をふらず、五島産の椿油を使用しており、微かにその香りがする[53]。伸びにくいという特徴もあり、たっぷりのお湯で茹で上げたあつあつの釜揚げうどんを、醤油やアゴ(トビウオ)出汁のたれで食べる「地獄炊き」が代表的な食べ方である[53]。弘法大師伝来を称する讃岐うどんに対し、五島うどんは地理的に大陸から独自ルートで直接伝来したと言われる[54]。
あごだしうどん
長崎県で食べられている。出汁は当地で獲れるアゴでとるため、かつおだしよりあっさりした味。長崎地方は古く中国大陸との貿易の歴史があり、五島手延うどんや島原手延そうめんに見られるように手延製法が受け継がれている。奈良時代の文献には「麦縄」としてうどんが書かれており、これは長崎の五島うどんや島原そうめんに見られる「手延製法」と一致すると考えられる。
ごまだしうどん
詳細は「ごまだし」を参照
ごまだしうどん
大分県の佐伯市発祥。焼いたエソ類などの魚の身、ごま、醤油等を混ぜ、擂り潰して作られる「ごまだし」と呼ぶ物を湯に溶き、つゆとして用いる。
やせうま
詳細は「やせうま」を参照大分県で食べられている。弾力ある食感を生かし、きな粉餅のようにきな粉をかけたものである。
団子汁
詳細は「だんご汁」を参照
九州一帯で食べられる郷土料理。主にみそ仕立ての汁に、団子を平らにつぶしたものや、平たい麺が入る。大分では「だんごじる」、他の地域では「だごじる」と呼ばれる。
魚うどん(ぎょうどん)
詳細は「魚うどん」を参照
宮崎県日南市周辺の郷土料理である。太平洋戦争中の1940年代、主食不足の頃に代用食として食されていた。トビウオのすり身に小麦粉などを加えた麺を使い、出汁もトビウオの骨からとっている。当地のもの(麺は柔らかくてコシがないのが一般的)とは違い、現代のものはコシが強い。終戦後、永らく食されることはなかったが、1980年に魚料理の普及に努めていた日南漁協婦人部が、土地の老人からの話を聞いて再現し、復活させた。