天正地震 Ⅰ【前半】岐阜愛知静岡長野・・震災列島石黒耀・・目次 概要 震源域 震源断層 地震規模
富山湾
三陸沿岸
宮城県本吉郡戸倉村(現在の南三陸町戸倉)口碑に、「天正13年11月29日畿内、東海、東山、北陸大地震の後に津波来襲」という記述があり、太平洋北部にも津波が来襲したか、連動地震による津波があった疑いがある。
一方で戸倉の口碑は天正十三年五月十四日(1585年6月11日)と記した史料もあり、日付は異なるが1586年7月9日リマ地震による遠地津波との見方もある。
三陸大震災史(1933)
- 正親町天皇天正十三年乙酉十一月二十九日、夜亥時、至子時、地大震、畿内及東海、束山、北陸三道殊甚、地裂水湧、屋舎毀壊、壓死者無算、是時濱海水溢、溺死者数多、斯後震動十二日。
- 按スルニ県下本吉郡戸倉村民ノ口碑二天正十三年五月十四日海嘯アリシト云フモノ蓋シ之ヲ指スモノナラン
噴火
『四ツ半時、大地震あり。この時、硫黄山(焼岳)大噴火を起こし、麓中尾村は地形を大きく変貌する。』(顕如上人貝塚御座所日記)。 焼岳が噴火したという口碑がある。
地震後
1586年の天正大地震後、近い時期に大地震が複数起こっている。
- 1596年9月1日(文禄5年閏7月9日) 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0。
- 1596年9月4日(文禄5年閏7月12日) 慶長豊後地震(大分地震) - M 7.0〜7.8。
- 1596年9月5日(文禄5年閏7月13日) 慶長伏見地震(慶長伏見大地震) - M 7.0〜7.1。
- 1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震(東海・東南海・南海連動型地震) - M7.9〜8。
- 1608年12月30日(慶長13年11月23日) 仙台で地震 - 津波で50人死亡[49]。
- 1611年 9月27日(慶長16年8月21日) 会津地震 - M 6.9、死者3,700人。
- 1611年12月2日(慶長16年10月28日) 慶長三陸地震 - M 8.1。
- 1614年11月26日 (慶長19年10月25日) 高田領大地震- M 7.7・・同じ日に日本海側の越後高田領と太平洋側の伊豆、銚子の両方の津波記録がある他、京、会津、伊豆、紀伊、山城、松山の地震被害記録があり、これらの記録を満足する単一の地震はあり得ないとされる[61]。
- 1662年 6月16日(寛文2年5月1日) 寛文近江・若狭地震(寛文地震)(畿内・丹後・東海西部地震、寛文の琵琶湖西岸地震、近江・山城地震) - M 7 1/4〜7.6、死者数千人。
九州の名護屋にいた秀吉が伏見城を築くときに1592年(文禄元年)普請を担当した京都所司代前田玄以(げんい)に送った書簡に、「ふしみのふしん、なまつ大事にて候まま」と記されていた。“なまず大事”=城の建築にあたっては地震対策を万全にせよ、という意味であるが、これは1586年の天正地震を念頭に置いたものとみられている。
日本原子力発電などによる2012年12月の発表では、天正地震の津波の記録を基にした調査により、敦賀市の猪ヶ池で約5,500年前の地層から津波によるとみられる砂が見つかった。
脚注
- ^ a b 寒川旭 『地震の日本史』 中公新書、2007年
- ^ 大和田哲男『山内一豊のすべて』新人物往来社、2005年
- ^ 『菅家見聞録』
- ^ 『長島町誌 上』
- ^ a b 『大日本地震史料』
- ^ 宇佐美龍夫 『わが国の歴史地震の震度分布・等震度線図』 日本電気協会、1994年
- ^ a b 金折裕司ほか、1586年天正地震の震央に関する一考察 濃尾平野の発掘遺跡に認められた液状化跡 地震 第2輯 Vol.46 (1993-1994) No.2 P143-147
- ^ a b c 飯田汲事 『天正大地震誌』 名古屋大学出版会、1987年
- ^ 中村一明、守屋以智雄、松田時彦 『地震と火山の国』 岩波書店、1987年,ISBN:4000076795 C0344
- ^ a b 遠田晋次:中部地方の活断層の相互作用と連動・連鎖性の評価-天正地震を例にして- 活断層研究 35号(2011年9月) 1586年天正地震特集 (PDF)
- ^ 遠田 晋次ほか、阿寺断層の最新活動時期 1586年天正地震の可能性 地震 第2輯 Vol.47 (1994-1995) No.1 P73-77
- ^ (須貝俊彦) 1586年天正地震養老断層震源説を示唆する地形地質学的記録 日本活断層学会 活断層研究 35号(2011年9月)1586年天正地震特集 (PDF)
- ^ 国立天文台『理科年表』丸善
- ^ 地震調査研究推進本部・養老-桑名-四日市断層帯
- ^ 養老断層の完新世活動履歴-1586年天正地震・745年天平地震震源断層の地質学的証拠 地震予知連絡会 会報第63巻 (PDF)
- ^ 「若狭湾津波の伝承を分析 敦賀短大・外岡教授」中日新聞2012年4月24日
- ^ フロイスは「目撃者たちが後日司祭たちに語った」としている。
- ^ Kawasumi(1951) 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値,東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp. 469-482
- ^ 宇佐美龍夫 『日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年
- ^ 飯田汲事(1979), CiNii 飯田汲事(1978): 歴史地震の研究(1) 天正13年11月29日(1586年1月18日)の地震の震害,震度分布および津波について, 愛知工業大学研究報告. B, 専門関係論文集, 13, 161-167.
- ^ 村松郁栄(1998):天正地震の震源について, 日本地震学会秋季大会講演予稿集, p144.
- ^ 城があった正確な位置は不明である。
- ^ この際、同城に滞在していた東常堯(東常慶の子)も死亡したとみられる
- ^ 天正地震 (1586) による前山地すべりの発生機構 日本地すべり学会誌 Vol.42 (2005-2006) No.2 P115-120
- ^ 国土交通省 神通川水系砂防事務所[リンク切れ]
- ^ 森勇一・鈴木正貴 (1989年3月24日). “愛知県清洲城下町遺跡における地震痕の発見とその意義 (PDF)”. 活断層研究 7 p.63 - p.69 1989. 2011年9月12日閲覧。
- ^ 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年
- ^ 朝日新聞2010年6月5日
- ^ 見性院は無事であった。
- ^ 外岡慎一郎(2013):越前・若狭の歴史地震・津波~年表と史料 敦賀論叢(敦賀短期大学紀要)第27号 抜刷 2013年3月1日 (PDF)
- ^ 外岡慎一郎:越前・若狭の歴史地震・津波~年表と史料 敦賀論叢, ISSN 0913-5960
- ^ 天正地震とこれを引き起こした活断層 (PDF) 2007年能登半島沖地震の際に富山湾のプレジャーボートが転覆
- ^ a b 水月湖ボーリングコアを用いた天正地震(AD1586)前後の湖底堆積物の分析 地学雑誌 Vol.122 (2013) No.3 p.493-501
- ^ 東京大学地震研究所 『日本地震史料 続補遺』 日本電気協会、1993年
- ^ 『長島町史』 1978年
- ^ 「兼見卿記」『大日本史料』第11編23冊
- ^ ジアン・クラセ 著, 太政官翻訳係 訳 (坂上半七, 1880
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 日本西教史大正14年、太陽堂書店
- ^ 「天正地震」と越前・若狭:外岡慎一郎:敦賀論叢(敦賀短期大学研究紀要):第26号:2012年3月1日 この論文には「クルビ浦」についての発見が掲載。
- ^ 「罪作りなフロイス」磯田道史:読売新聞2012年3月28日朝刊16面
- ^ 有効な文献を「兼見卿記」とフロイス「日本史」(と同様のキリスト教の報告)だけとした。県市町村史や神社の調査も事業者によって行われているものを引用。
- ^ 若狭湾沿岸における天正地震による津波堆積物調査について 平成23年12月27日 旧:原子力安全・保安院。(現:原子力規制委員会)
- ^ 『若狭湾の津波調査 精度高め多角的検証せよ』福井新聞の論説(2012年2月2日午前8時18分)
- ^ 約1万年前以降「各発電所の安全性に影響を与えるような津波の痕跡は、認められませんでした。」(若狭湾沿岸における津波堆積物の調査結果について2012年12月18日関西電力株式会社ほかのプレスリリース)
- ^ ここは関西電力による2011年の調査範囲外である。
- ^ 山本は、海側にある10mの丘からは津波の痕跡が見あたらないので、笠原川沿いの津波が運んだと推測している。
- ^ 若狭湾沿い地層に津波跡、天正地震発生裏付けか 読売新聞 記事:2015年05月19日
- ^ a b 宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺 三』 東京大学地震研究所編、1995年
- ^ 時刻を「子の刻」(午前0時ころ)とする報道があり、天正大地震の本震と若干異なるが、該当ページにはない。
- ^ 「罪作りなフロイス」磯田道史:読売新聞2012年3月28日朝刊16面
- ^ 若狭で前兆となる地震が数日間あり、本震や津波はその後に来たとも読める。南海トラフの巨大地震でも、1カ所だけ前兆があったという例がある。
- ^ (富山県)上市町史編纂委員会 『上市町史』 上市町、1970年、p1117その他地震。
- ^ 天正13年5月14日にも三陸沿岸に津波が来襲したという。
- ^ 吉村昭「三陸海岸大津波」文春文庫版p60(2)
- ^ 昭和八年三月三日 三陸沖強震及津波報告
- ^ 第1章 チリ地震津波とは何であったのか (PDF) 害教訓の継承に関する専門調査会報告書, 1960チリ地震津波 報告書の概要
- ^ 首藤伸夫、越村俊一、佐竹健治、今村文彦、松冨英夫 『津波の事典』 朝倉書店、2007年
- ^ 三陸大震災史(1933)出典を「宮城県海嘯史」としている
- ^ 国土交通省 神通川水系砂防事務所
- ^ 桜島国際火山砂防センター
- ^ 宇佐美龍夫『最新版 日本被害地震総覧』東京大学出版会、2003年
- ^ これは、天正地震の時に琵琶湖沿岸にいた秀吉がナマズがはねるのを見て地震の原因をナマズと考えたためであるという、これ以前には地震とナマズを関連づけたものはないが、その後江戸時代には「鯰絵」という鯰が地震を起こすという考え方に基づいた絵が流布される。秀吉は地震後即座に堅固な大阪城に避難する。
- ^ 「災害史は語るNo.139 天正の大地震」伊藤和明のインサイドアウト<防災情報新聞
- ^ 結局伏見城は1596年の慶長伏見地震で崩壊し、「地震加藤」の逸話を残す。
- ^ 敦賀原発近くの若狭湾で古い津波の痕NHK 2012年12月18日 20時43分[リンク切れ]
参考文献
- 1586年天正地震特集 日本断層学会 『活断層研究 Active Fault Research』35号、2011年9月
- 飯田汲事 『天正大地震誌』 名古屋大学出版会、1987年。
- 『大日本地震史料 上巻』 震災予防調査会編、丸善、1904年。 pp.180-184 国立国会図書館サーチ
- 『大日本地震史料 増訂 一巻』 武者金吉、文部省震災予防評議会、1941年。 pp.553-574 国立国会図書館サーチ
- 『新収 日本地震史料 一巻 自允恭天皇五年至文禄四年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1981年。 pp.138-170
- 『新収 日本地震史料 補遺 自推古天皇三十六年至明治三十年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1989年。 pp.66-88
- 『新収 日本地震史料 続補遺 自天平六年至大正十五年』 東京大学地震研究所、日本電気協会、1994年。 pp.23-26
- 宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺』 東京大学地震研究所、1999年3月。 pp.13-15
- 宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺二』 東京大学地震研究所、2002年3月。 p.32
- 宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺三』 東京大学地震研究所、2005年3月。 pp.30-76
- 宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺四ノ上』 東京大学地震研究所、2008年6月。 pp.26-27
参考論文
- 安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」」(『日本海域研究所報告』8号、1976年発行)
- 安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第6報 両城主をめぐる地震の被害、震度分布、余震等について―」(『日本海学会誌』3号、1979年発行)
- 安達正雄「飛騨帰雲城と城主・内ヶ嶋氏の史実を探る― 天正大地震の土石流で城と城下町が埋没し、放置されて四百二十年に当り―」(『石川郷土史学会々誌』39号、2006年発行)
- 安達正雄「木舟城を陥没させ帰雲城を埋没させた天正大地震の真相―天正大地震は連続多発地震だった―」(『石川郷土史学会々誌』42号、2009年発行)
- 松浦律子「天正地震の震源域特定―史料情報の詳細検討による最新成果―」(『活断層研究』35号、2011年発行)
- 松浦律子「天正地震に関する欧州史料の素性と確実な内容」(『地震』65巻1号、2012年発行)
- 外岡慎一郎「「天正地震」と越前・若狭」(『敦賀論争』26号、2012年発行)
- 外岡慎一郎「史料と展示「天正地震」の史料を読む : 若狭湾に津波は襲来したか」(『歴史学研究』903号、2013年発行)
関連項目
外部リンク
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