天正地震
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帰雲山の崩壊跡(中央部)
天正地震(てんしょうじしん)は、天正13年11月29日(1586年1月18日)に日本の中部で発生した巨大地震である。
天正大地震(てんしょうおおじしん)あるいは天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)[2]、白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)[3]、天酉地震[4]とも呼ばれる。
『東寺執行日記』、『多聞院日記』など多くの古記録に記載され、『梵舜日記』(別名『舜旧記』『舜舊記』)には約12日間にわたる余震が記録されている[5]。
目次
概要
天正地震の震度分布[6]
被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ歴史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はなく、いくつかの調査が行われているが震央位置も判明していない[7]。なお、11月27日に前震と考えられる地震と11月30日に誘発地震と考えられる地震が発生した[8]。
戦国時代末期の豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難い時代背景であった。しかし、三河にいた松平家忠の日記によると、地震は亥刻(22時頃)に発生し翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生。その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。
震源域
近畿から東海、北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県、三重(越中、加賀、越前、飛騨、美濃、尾張、伊勢、近江、若狭、山城、大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている[9]。しかし、ひとつの地震として複数の断層が連動して活動したのか、数分から数十時間をかけて活動したのかは議論が分かれている[10]。
寒川旭『日本人はどんな大地震を経験してきたか』(平凡社新書)によると、養老-桑名-四日市断層帯などの三つの大断層が動いたという。
震源断層
などがある。
1998年に行われた地質調査では岐阜県にある養老断層[14]における2つの活動歴が確認され、最新の活動は15世紀以降であることから745年天平地震と共にこの断層が震源断層のひとつであった可能性が高くなった[15]とされている。
しかし、これらの説では太平洋側の伊勢湾と日本海側の若狭湾の両方に津波被害が及び、内陸部の被害も大きいことを説明できていない。
日本海側沿岸と太平洋沿岸の両方に及ぶ大津波は他に知られていないため[16]。フロイスによる若狭湾の津波記録[17]は琵琶湖沿岸の地滑りによるものとの誤りだと考えられているが、若狭湾の津波については別の資料もある(後述)ため、宇佐見は若狭湾の地震としている。
地震の規模
文献による歴史記録や地殻変動の痕跡は年月の経過により失われ、地震像の詳細は不明である。規模は研究者により諸説あり、主な説は、
- 河角廣(1951):規模MK = 6. を与え[18]、マグニチュードは M - 7.9に換算されている。
- 宇佐美龍夫(1996,2003):濃尾断層帯の武儀川断層から東北側を震源として、M - 7.8±0.1 程度[19]。
- 安達(1979):M - 8.1
- 飯田汲事(1978,1987):震度分布から M - 8.2[20]。法林寺断層で、11月27日に M - 6.6 と養老断層の延長部で木曽川河口付近において、11月29日に M - 8.1[8]。
- 村松郁栄(1998):富山側で、11月27日に M - 6.6 と養老断層付近で M - 7.8[21]。
など。
被害
- 飛騨国 - 帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没[22]、城主内ヶ島氏理とその一族は全員行方不明となり、同時に内ヶ島氏は滅亡した[23]。また、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出すこととなった。白川郷では300戸が倒壊するか飲み込まれた[24]。「顕如上人貝塚御座所日記」に、「十一月二十九日夜4ツ半時、大地震あり」との記述がある。焼岳付近で地震による(?)山崩れ。家屋300余埋没[25]。
- 美濃国 - 大垣城が全壊焼失した[1]。また恵那市上矢作町の上村川では山体崩壊があった可能性がある。また、奥明方(現郡上市明宝)の水沢上の金山、また集落(当時60-70軒)が一瞬で崩壊し、辺り一面の大池となったといわれる。
- 越中国 - 木舟城(現在の高岡市の南西)が地震で倒壊、城主の前田秀継夫妻など多数が死亡した。前田秀継は前田利春の子で前田利家の弟である。
- 尾張国 - 昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う清洲城下の発掘調査で、天正大地震による可能性の高い液状化の痕跡が発見されている。天正14年(1586年)に織田信雄によって行われた清洲城の大改修は、この地震が契機だった可能性が高いと考察された[26]。また蟹江城が壊滅した。
- 伊勢国 - 織田信雄の居城であった長島城が倒壊、桑名宿は液状化により壊滅するなど甚大な被害を受けた。そのため信雄は居城を清洲城に移した。
- 京都 - 東寺の講堂、灌頂院が破損、三十三間堂では仏像600体が倒れた[27]。
- 琵琶湖 - 下坂浜千軒遺跡(しもさかはませんけんいせき)となる現長浜市の集落が液状化現象により、水没した[28]。秀吉の築いた近江長浜城を山内一豊(妻は見性院)が居城としていたが全壊し、一人娘与祢(よね)姫(数え年6歳)と乳母が圧死した(『一豊公記』)。また家老の乾和信夫妻も死亡した[29]。
- 若狭湾・伊勢湾での大きな津波被害もあった(後述)。
津波
琵琶湖湖北(『山槐記』)[30]、若狭湾、伊勢湾に津波があったとされる記録がのこる[31]。しかし、海底下に変位領域が及んでいなくても海面の変動を引き起こす事があり[32]、必ずしも断層が海底に有る必要はない。
海岸線から約4.8kmの距離にある水月湖の湖底堆積物調査からは、水月湖に海水が流入した痕跡は見つかっていない[33]。しかし、水月湖までは到達する規模で無ければ痕跡が見つからないのは当然であり、見つからなかったことが津波が生じなかったとする証拠ではないとしている[33]。
伊勢湾
伊勢湾に津波があったとされる。加路戸、駒江、篠橋、森島、符丁田、中島などは地盤沈下したところに津波が襲来し水没した。善田は泥海と化した。伊勢湾岸では地震とともに海水があふれ溺死者を出した[34][35]。
若狭湾
『兼見卿記』には丹後、若狭、越前など若狭湾周辺に津波があり、家が流され多くの死者を出したことが記され、『フロイス日本史』にも若狭湾と思われる場所が山ほどの津波に襲われた記録があり、日本海に震源域が伸びていた可能性もある[36]。 他にジアン・クラッセ『日本教会史』(1689年。明治時代に翻訳されて『日本西教史』[37][38])や『豊鏡』(竹中重治の子の竹中重門著。江戸時代。豊臣秀吉の一代記)、『舜旧記』、『顕如上人貝塚御座所日記』、『イエズス会日本書翰集』などにも、詳しい記述がある[39][40]。
2011年(平成23年)12月に原子力安全保安院は、敦賀原発の安全性審査のための津波堆積物と文献調査報告[41][42]を発表した。それによると「仮に天正地震による津波があったとしても、久々子湖に海水が流入した程度の小規模な津波であったものと考えられる。なお、事業者においては念のための調査を今後とも行っていくことが望ましいと考えられる。」としている[43]。2012年12月、再調査結果として大きな津波の後は見つからなかったとしている[44]。
2015年(平成27年)5月、福井大学の山本博文教授は福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表した[45][46][47]。
- ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。
- その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。
- 若狭の国には、海に沿ってやはり長浜と称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。
- (高)潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。
- 「やはり長浜と称する別の大きい町」というのは、前の文章に「長浜城下で大地が割れた」と書いてあり、区別するためである。そこには「関白殿が信長に仕えていた頃に居住していた長浜と言うところ」という説明もあり、これは1574年(天正2年)に秀吉が築城を開始した琵琶湖東岸の長浜市にある長浜城を指し、若狭湾の長浜との区別をはっきりさせている。長浜は小浜の誤記であるとの見方もある[48]。
廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユ(ア)リ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知云々、江州・勢州以外人死云々
- 丹後・若州(若狭)・越州(越前)沿岸を津波が襲い、家々はすべて押し流され、死者は無数であった[49]。
『舜旧記』(十一月二十九日条)
近国之浦浜々屋,皆波ニ溢レテ,数多人死也,其後日々ニ動コト,十二日間々也
クラッセ『日本教会史』(1689年)[50]
若狭の国内貿易の為に屢々(しばしば)交通する海境に小市街あり。此処は数日の間烈しく震動し、之に継ぐに海嘯(かいしょう、津波)を以てし、激浪の為に地上の人家は皆な一掃して海中に流入し、恰も(あたかも)元来無人の境の如く全市を乾浄したり
『イエズス会日本書翰集』
若狭の国には海の近くに大変大きな別の町があって町全体が恐ろしいことに山と思われるほど大きな波浪に覆われてしまった。そして、その引き際に家屋も男女もさらっていってしまい、塩水の泡に覆われた土地以外には何も残らず、全員が海中で溺死した。
『日本ノ大地震二就キテ』 理學博士大森房吉 震災予防調査会報告 32号 p57-58
天正十三年十一月二十九曰(西曆千五百八十六年一月十八日) 山城、大和、河内、和泉、攝津、讃岐、淡路、伊賀、伊勢、尾張、三河、美濃、遠江、飛彈、越前、若狹、加賀大地震」沿海ニ津浪アリ
富山湾