貨幣史・世界史 Ⅴ【上】金属貨幣 古代 メソポタミア エジ…
中世
ヨーロッパ
ローマ帝国崩壊後に西ヨーロッパを統一したフランク王国は、デナリウスを作って銀貨の重量を上積みし、度量衡の改革を行った。またカール大帝の時代には造幣権を国家の独占とした。その理由として、東方の金貨に対する対策、銀鉱の開発、飢饉時の穀物価格高騰に対する購買力強化などがあげられる。銀貨の上積みはその後も続いたため、小額取引用のオボルスも発行された[53]。カロリング朝ではリブラという計算用の貨幣単位により、1リブラ=20ソリドゥス金貨=240デナリウス銀貨という比率が定められ、中世ヨーロッパの貨幣制度の基本となった。イングランドでは王の造幣権や計算体系は維持されたが、大陸諸国では領主や都市も独自の貨幣を発行し、同じ名称の貨幣でも異なる計算体系を用いるなど複雑になった[54]。東地中海では、東ローマ帝国がノミスマ金貨を発行し、ローマ帝国のソリドゥス金貨を引き継ぐものとして流通した。また、ヨーロッパにはイスラーム世界からの貨幣が流入し、ヴァイキングの交易によってスカンジナビアにもイスラーム貨幣が貯蔵された[55]。
日常の取引で小額面の貨幣が必要とされたが、銀貨は高額だったため、西ヨーロッパ各地で商品貨幣に加えて信用取引が増加した。小規模な市場町では口頭で信用取引が行われ、10世紀からイスラーム世界の小切手や為替手形に接していたイタリアの諸都市では13世紀に預金銀行、為替手形と振替が出現した。13世紀には公証人の証書だったが、やがて信書により行われるようになる。両替商からは高利貸や銀行家として発展をとげる者が出始め、大銀行家から君主にもなったメディチ家もそのひとつである。預金銀行は中流商人による事業で、14世紀には大商人による小切手の原型が流通する。こうした手法は現金輸送の節約に役立ったが、貴金属の不足が続いて硬貨の供給は追いつかず、14世紀から15世紀にかけて深刻になった[56]。
西アジア、アフリカ
ウマイヤ朝のディルハム貨
イスラーム帝国のウマイヤ朝は、東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアから領土を獲得し、それぞれの金本位制と銀本位制を引き継いだ。アブドゥルマリクの時代に貨幣制度が整えられ、金貨のディナール、銀貨のディルハム、銅貨のファルスが定められた。ディナールは東ローマ帝国のノミスマにならいつつ、独自の重量を採用した。ディルハムはサーサーン朝のディレムにならって発行し、ファルスは小額取引用とされ、金貨と銀貨はダマスクスの造幣所で発行されて地方へ広まった[57]。
金本位制と銀本位制の地域が領土に含まれたため、アッバース朝では金銀複本位制がとられた。やがて征服地に退蔵されていた金の利用、サハラ交易や金鉱での新たな金の獲得、そして技術の向上によって金貨の造幣が活発となり、9世紀からイスラーム世界では金貨が普及した。金貨は貿易の決済として重要とされ、長期間にわたって品位が保たれ、銀貨との交換比率が安定していた[58]。
アッバース朝のもとで地中海やインド洋の商業は急増したが、次第に金銀の供給が不足したため、小切手、為替手形、銀行が普及した[59]。サッラーフと呼ばれる両替商は、小規模な業者はスークで両替や旧貨と新貨の交換を行い、大規模になると銀行業として王朝やマムルークなどに融資を行った。銀不足は10世紀のファーティマ朝時代に深刻化し、12世紀のアイユーブ朝時代には金貨の重量基準が変更され、かわって銀貨が中心となる。イスラーム世界における金銀の不足は、15世紀のエジプトでファルス銅貨のインフレーションと穀物価格の高騰などの経済危機につながる。銅貨はファーティマ朝時代には地方当局が発行できるようになっていたため重量が安定せず、しかもアイユーブ朝になると金銀貨との交換比率が定められ、貨幣制度が混乱した。さらにファルス銅貨とは別にディルハム銅貨という計算用の貨幣が導入されると貨幣相場の変動が激しくなり、実際にファルスを用いていた民衆に混乱をもたらした。当時のエジプトの歴史家マクリーズィーは、金銀を取引の中心にすえて貨幣政策を行うよう主張しており、これは現在の貨幣数量説に近い[60]。
東アジア
北宋銭(左上3枚)南宋銭(その他)
唐の滅亡にともない五代十国時代になると銅の不足によって鉛貨や鉄貨も発行され、十国では硬貨の不足が激しく、鉛貨と鉄貨が中心となった。やがて中国を統一した宋は、悪貨や私鋳を取り締まる一方で銅貨の宋銭を大量に発行する。しかし物価は安定せず、銭荒と呼ばれた[61]。宋銭は、遼、西夏、金、高麗、日本、安南、ジャワなどに流入し、貿易の他に各国のレートにもとづいて国内でも流通した[62]。
モンゴル帝国は銀錠と呼ばれる秤量銀貨と絹糸による税制を定め、13世紀の元にも引き継がれた。元は紙幣の交鈔を流通させつつ、貴金属の私的な取引を禁じ、銅貨の国内使用もたびたび禁じた。ただし管理貿易による貴金属輸出は続き、銀や銅はモンゴル帝国の領土拡大にともなってユーラシア大陸の東西を横断して運ばれた。イスラーム世界の銀不足は13世紀に解消され、14世紀から再び不足した。イギリスの銀貨発行は14世紀に急減し、イタリアでも銀不足が起きている。こうした現象は、元からの銀の増加と滅亡による停止が原因とされる[63][64]。宋銭が普及した地域では、不足すると私鋳銭により供給され、銅のほかに鉛で作られた質の低いものもあった[65]。
日本では、日宋貿易からの宋銭の流入で硬貨が増えるにともない、利銭や借銭と呼ばれる金融業も広まった。平安時代後期の12世紀には借上、室町時代の中期には土倉、酒屋などの金融業者が現れた[66]。宋銭は、日本でそれまでの現物納税にかわって硬貨で納税をする代銭納が普及するきっかけにもなった[67]。
アメリカ
アンデス文明を統一したインカは、各地を編入する一方で、北方の貨幣や交易商人は全国的な制度に取り入れずに残した。北方では、3種類の貨幣が用いられていた。チャキーラと呼ばれる骨製のビーズ紐は、エクアドル高地で使われた。金貨にはチャグァルというボタン状のものがあった。アチャス・モネーダスと呼ばれる銅製の斧は、十進法にもとづいて作られてエクアドルやペルーの海岸で使われた[68]。
近世・近代
メキシコドル、1894年
スペインのカスティーリャ王国は、アメリカ大陸の植民地化によって金銀を獲得し、16世紀にはスペインのエスクード金貨やレアル銀貨が国際的な貨幣として流通した。アメリカ大陸からの金銀流入は、価格革命と呼ばれる現象の一因とも言われる。各国から商人が集まっていたアントウェルペンが国際的な金融取引の中心となり、イタリアの諸都市に利益をもたらしていた取引の手法がさらに発展した。やがて16世紀後半からオランダの独立運動が盛んになり八十年戦争が起きるとアントウェルペンは衰退し、金融取引の中心はアムステルダムに移る。アムステルダムは17世紀に2種類の銀貨を発行し、銀の含有率が少ない国内用銀貨と、銀の含有率が高い貿易用の銀貨に分けられた[69]。アムステルダム銀行は預金管理において計算用の貨幣で実在しないバンク・マネーを尺度に使い、複雑化していた西ヨーロッパの計算体系をまとめる役割も果たした[70]。
中国では朱元璋が明の成立前から銅貨の発行を始めたが、銅不足のため銅貨は貿易用の貨幣となった。こうして永楽通宝や宣徳通宝は海外へ流通し、日明貿易により室町時代の日本にも流入した。アメリカ大陸で採掘された貿易銀は、スペインのガレオン貿易で太平洋を経由して中国にも到達し、明は銀の交易圏に組み込まれる。特に16世紀以降は銀の流入が増え、銀の普及に大きな影響を与えた[71]。明は民間の富の蓄積を抑えるために銀の採掘を規制していたが、スペインがマニラへ運んだ銀が明にも5000トンほど持ち込まれ、貿易商人の豪華な生活は民衆の反発も招いた[72]。
こうして明では銀と紙幣が貨幣として定着して銅貨発行が衰え、加えて日明貿易の断絶で日本向けの銅貨は停止する。日本では硬貨が不足し、硬貨を尺度とする貫高制から米を尺度とする石高制に移る一因にもなった[73]。17世紀以降の日本は貴金属の産出地となり、ポルトガルはマカオ経由で日本と貿易を行った。17世紀前半に日本が支払った銀は、世界全体の産銀量42万キログラムのうち20万に達した。江戸幕府による鎖国令後は、ポルトガルに代わりオランダ東インド会社が日本との貿易によって金、銀、銅を取引した[74]。
貿易銀のメキシコドルは国際貿易の決済通貨となり、19世紀から20世紀にかけて同量、同位の銀貨が各地で作られた。たとえば中国の銀元、香港ドル、日本の円銀、USドル、シンガポールドル、ベトナムのピアストルなどがある[75]。
紙幣
交子
中世には、名目貨幣である紙幣が登場した。紙幣は運びやすく、原料とコストの面で利点が多かったが、発行がしやすいためにインフレーションも発生しやすく、しばしば国家の弱体化につながった。現在の紙幣は、中央銀行が発行する銀行券と政府が発行する政府紙幣に大きく分かれるが、その他にも民間で紙幣が発行されてきた。
政府紙幣
世界初の紙幣は宋の交子とされている。当初は、銅が不足して鉄貨を用いていた四川において鉄貨の預り証として発行された。四川での成功を知った宋政府は交子の発行を官業とし、本銭(兌換準備金)や発行限度額を定めて交子を手形から紙幣に定め、1023年から官営の交子を流通させた。
至元通行寳鈔とその原版
北宋を倒したモンゴル帝国のオゴデイは、江南が勢力外だった当初は銅が不足したため紙幣の交鈔を発行した。モンゴル帝国はクビライの時代に皇帝直轄政権として元を成立させ、1260年に交鈔は法定通貨として流通を始める。交鈔の流通を拒んだり、偽造をする者は死罪となった。交鈔の製造法は、樹皮を薄くのばした上に銅版画を印刷し、皇帝の御璽を押して完成とするもので、300×200ミリを超えるサイズもあった[76]。マグリブの旅行家イブン・バットゥータは『大旅行記』で交鈔を「紙のディルハム貨」と呼び[77]、ヴェネツィア商人のマルコ・ポーロは紙幣についての驚きを『東方見聞録』で語っている[78]。
モンゴル帝国の地方政権であるイルハン朝では、西アジア初の紙幣としてチャーヴ(鈔)が発行された。1294年に君主のゲイハトゥが放漫財政の再建を目的としたもので、交鈔を参考に作られており漢字も印刷されていた。金属貨幣を禁止してチャーヴを流通させようとしたが、当時のイスラーム社会には定着せず、2ヶ月で回収となった。元の後に成立した明も、銅不足のため1368年に紙幣の大明宝鈔(中国語版)を発行した。明は紙幣を国内用、銅貨を貿易用の貨幣としたが、やがて紙幣は増発により価値が下がり、銅貨や秤量銀貨の国内使用も解禁となる[79]。
欧米で初の政府紙幣は、アメリカ独立戦争で13植民地によって発行された。13植民地はイギリスからの独立をするために大陸会議を招集し、独立戦争の戦費として1775年から1779年にかけて大陸紙幣(英語版)を発行した。この紙幣は13植民地の各州政府で発行され、メキシコドルでの交換を定めていたが、大量発行のためインフレーションを起こした。また急造のために偽造しやすく、イギリス軍によって妨害用の偽札も作られてインフレーションを悪化させた[80]。