貨幣史・世界史 Ⅳ【内】物品貨幣 中世 近現代 金属貨幣

 

金属貨幣

リュディア王国のエレクトロン貨

金属は保存性・等質性・分割性・運搬性において貨幣に適した性質があり、金貨銀貨銅貨鉄貨などが作られた。このうち銅貨は実際には青銅貨である場合が多い。古代から中世にかけての金属貨幣は、金属資源の採掘量に左右される傾向にあり、鉱山が枯渇すると貨幣制度は重大な脅威を受けた。金属貨幣の不足は、小切手為替手形、紙幣などの発生にも影響を与えた。

金属貨幣は、はじめは地金を計って用いた。これを秤量貨幣と呼ぶ。やがて、鋳造貨幣すなわち硬貨が現れた。硬貨のように一定の形状・質・重量を持っている貨幣を計数貨幣とも呼ぶ。

地中海や西ヨーロッパでは硬貨の素材として主に金銀が用いられ、中国や古代・中世の日本では銅が用いられた。西ヨーロッパでは領主や商人の交易に銀貨を中心に多用したが、中国では農民の地域市場での取引に銅貨が多用されていた[36]

古代

メソポタミア

メソポタミアの銀は、秤量貨幣にあたる。メソポタミアは銀を産出しないため、アナトリア半島のトロス山脈などから銀が運ばれた。シェケルという単位が紀元前30世紀頃から用いられ、シュメル語ではギンと呼ばれた。紀元前22世紀ウル・ナンム王の時代には銀1ギン(約8.3グラム)=大麦1グル(約300リットル)と公定比率を定めた[37]アッカドからバビロン第1王朝の時代にかけてはハルという螺旋型の秤量銀貨が作られ、携帯をして必要な量を切って支払いに用いた[38]。貸付も行われており、紀元前18世紀のハンムラビ法典には、利息の上限として銀は20%、大麦は約33.33%と定められていた。

エジプト

古代エジプトではナイル川からの砂金やプント国との交易などで豊富な金を集め、宮殿や神殿に貯蔵をした。金は国内の取引には用いられず、秤量金貨として貿易の決済に用いられた。本格的に鋳貨が流入するのは、アレクサンドロス3世による征服で成立したプトレマイオス朝以降となる[39]

インド

マウリヤ朝の銀貨

紀元前7世紀頃から秤量銀貨が用いられ、紀元前5世紀には打印貨幣の銀貨が登場し、硬貨はマウリヤ朝以降となる。マウリヤ朝ではパナ銀貨やマーシャカ銅貨が使われており[40]、比率は1パナ=16マーシャカとされた[41]。また、マウリヤ朝の時代にはペルシア、アレクサンドロスのヘレニズム諸国、ギリシアなどからの硬貨も流入していた。紀元前2世紀からギリシア人によって北西部にインド・グリーク朝が建国され、ギリシア様式の硬貨が発行されてインドの硬貨に影響を与えた。のちのクシャーナ朝カニシカ1世は、ローマのアウレウス金貨の様式で金貨を作っている。

中国

布貨

刀貨

の時代にタカラガイや亀甲が貨幣として用いられ、春秋時代には、それらをかたどった青銅貨として銅貝、刀貨、布貨が作られた[42]戦国時代にこれらの鋳貨が普及し、は度量衡を統一して銅銭の半両銭を貨幣重量の基準とした。秦から漢の時代にかけては金、銅貨、布帛が主流となり、漢では五銖銭を発行した[43]の王莽の時代には、銅不足による貨幣経済の混乱を収拾するために宝貨制などの貨幣政策が試みられたが、政策は失敗して穀物や布帛などの物品貨幣が増加し、後漢の五銖銭の再発行まで混乱が続いた[44]。後漢の滅亡後は、董卓によって五銖銭が董卓小銭という硬貨に改鋳され、銘文や研磨などの処理がされていない悪貨だったためインフレーションを招く。魏晋南北朝の時代に五銖銭の発行が再開するが銅不足は解消されず、各地で物品貨幣である布帛、穀物、塩の流通が盛んとなった。やがて銭の不足によって鉄片、裁断した革、重ねた紙なども銭として流通するようになるが、開元通宝の発行により混乱はいったん収束する[45]

春秋戦国時代から漢代にかけては、多くの貨幣論も書かれている。春秋戦国時代の出来事をもとに書かれた『国語』に登場する単穆公は、基準通貨と補助通貨の2種類の貨幣で調整をするという子母相権論を説いた。紀元前5世紀頃の『墨子』では刀貨と穀物価格の関係を論じており、紀元前4世紀頃の『孟子』では一物一価の法則への反論がなされている。司馬遷は『史記』の貨殖列伝で范蠡の逸話を通して物価の変動を説き、『管子』は君主による価格統制をすすめている[46]。文芸作品では、西晋魯褒が当時の社会を風刺した『銭神論』を著している[47]

ギリシア

古代アテナイのテトラドラクマ銀貨

ヨーロッパでの硬貨は、古代ギリシアの都市国家であるポリスで急速に普及した。現存する世界最古の硬貨は、アナトリア半島のリュディア王国で作られたエレクトロン貨である。これは金銀の自然合金であるエレクトラムを素材としていた。リュディアは豊富に貴金属を産する土地で、砂金状のエレクトラムが採れたパクトロス川はミダス王の伝説でも知られる。リュディアの影響を受けて、紀元前650年頃にはアルゴスで銀貨が作られ、紀元前550年頃にリュディアがエレクトラムから分離した金貨を作り、それをもとにタソスでも金貨が用いられた。この他にスパルタやアルゴスでは鉄貨が用いられ、硬貨は紀元前6世紀にエーゲ海一帯に広まった。ポリスはそれぞれ異なる貨幣を発行したため、両替商が重要な役割を持った。両替商は財産の保管を行いつつ、預けられた金を元手に貸付も始め、こうして銀行も成立した。紀元前5世紀にはアテナイを中心に海上貿易が盛んになり、ドラクマをはじめとするギリシアの銀貨、アケメネス朝ペルシアの金貨であるダリクキュジコスのエレクトロン貨などで取引が行われた[48]

アテナイは紀元前483年からラウレイオン銀山をもとに銀貨を発行して経済力を持ち、ポリス内にも貨幣が普及する。公共事業や民会、陪審に参加する市民にオボルス銀貨を支給する制度が始まると、貧しい市民もポリスの市場で食料を買えるようになり、富裕市民の公共奉仕も貨幣化されていった。アテナイの通貨単位は、1タラントン=60ムナ、1ムナ=100ドラクマ、1ドラクマ=6オボルスとされ、タラントンやムナは計算用の貨幣で実物は存在しなかった。

当時の貨幣論は、プラトンの『国家』、アリストテレスの『政治学』や『ニコマコス倫理学』などに見られる。また、アリストパネス紀元前405年に発表したギリシア喜劇の『』には、アテナイ市民の素姓の低下を貨幣の質の低下にたとえる箇所があり、当時の貨幣事情を反映しているとされている[49]

ローマ

紀元前240年から225年ごろのアス

詳細は「古代ローマの通貨」を参照

古代ローマでは青銅貨のアスが最初に作られ、ギリシアの様式を用いた。ローマは銀行制度もギリシアから引き継ぎ、地域の取引のための両替を行った。帝政に入ると金銀複本位制となり、銀貨のデナリウスは当初98%の銀を含有していたが軍費調達や財政再建の目的で質は低下し、アウレリアヌス帝の頃には含有率3%以下まで下がりインフレーションを起こした[50]。帝政期にはインド洋交易が盛んになり、アウグストゥス帝からトラヤヌス帝の時代のアウレウス金貨やデナリウス銀貨が当時の遺跡から発見されている。アプレイウスによる2世紀の小説『黄金のロバ』には、当時の物価などの貨幣経済が忠実に書かれているという説もある[51]

デナリウス貨

ローマ帝国は兵士の給与に銀貨を大量に用いたため、地中海世界では銀貨、および銀貨を補う高額通貨の金貨、低額通貨としての銅貨が定着した。ローマ軍団兵の給与は「」で給付され、それがサラリーの語源であるとの説があるが俗説の域をでない。salariumは兵士ではなく高位の役職者に対して定期的に支払われる給与であり、なぜsal(塩)を語源にしているのかは文献的・歴史的には確定できない[52]

中世