三十年戦争 Ⅲ【中】ボヘミア・プファルツ戦争(ベーメン・プ…
デンマーク・ニーダーザクセン戦争
1625年5月にデンマーク王クリスチャン4世が、プロテスタント側に就いて参戦した。クリスチャン4世はプロテスタントであり、白山の戦いの勝利に自信をつけているカトリックに対抗することが表向きの参戦理由であった。しかし実際のところは、神聖ローマ帝国のニーダーザクセンの区長として、長らく空位になっている2つの帝国内の司教職に自分の息子を就任させる要望を出したところ、フェルディナント2世に拒絶され、ティリー伯の軍がニーダーザクセンに進駐してきたことが真の理由であった。
1624年、ハプスブルク家の勢力強化を恐れたフランスのリシュリューがフランスならびにオランダ、イングランド、スウェーデン、デンマークと「ハーグ同盟(対ハプスブルク同盟)」を結成し、ハプスブルクとカトリック連合を牽制した。またフランス、サヴォイア、ヴェネツィアがスペインのハプスブルク家への支援ルートを阻んでいた。
これを受け、北ドイツへの勢力拡大とバルト海、北海の覇権確立を狙っていたデンマーク王クリスチャン4世が、息子の司教職就任問題に対するフェルディナント2世の露骨な反発に対し、フランス、イングランド、スウェーデンの同盟による支援を受けて1625年5月に参戦した。当初はスウェーデンとの共同介入であったが、両者の主導権争いの結果、スウェーデンはポーランド問題に注力し、デンマーク単独での介入となった。デンマーク王の参戦に対してイングランドは資金を提供し、エルンスト・フォン・マンスフェルト、クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの2人の傭兵隊長の軍を援軍として派遣した。
デンマークの参戦を受けたフェルディナント2世は、戦費不足のため窮地に陥っていた。常備軍による応戦が不可能と判断した皇帝は、ボヘミアの傭兵隊長ヴァレンシュタインを皇帝軍司令官に登用し、彼の軍隊に新教徒軍と戦うよう依頼する。一方、デンマーク軍と傭兵部隊の間では戦略についての主導権争いが発生し、ついに3者は別行動を取るようになる。これはヴァレンシュタインの各個撃破の好餌となり、マンスフェルトはデッサウの戦い(ドイツ語版)で敗北、ブラウンシュヴァイクも1626年6月16日に病死してしまう。そしてクリスチャン4世も6月27日のルッターの戦いでティリー伯に敗れ皇帝軍攻撃に失敗した。
クリスチャン4世が戦力を失うと、ヴァレンシュタインとティリー伯の軍はデンマークが神聖ローマ帝国内に領有していたポンメルン、メクレンブルクの2公爵領ばかりか、ユトランド半島をも蹂躙した。1628年にヴァレンシュタインがシュトラールズントを包囲するに至りクリスチャン4世はスウェーデンに支援を求め軍事同盟が成立した。スウェーデン軍の出兵によりシュトラールズントを解放され、辛くもヴァレンシュタインをデンマークから退けたが、包囲を解除したヴァレンシュタイン軍を追撃しようとクリスチャン4世が再上陸して返り討ちに遭い(ヴォルガストの戦い(英語版))、1629年に「リューベックの和約」が皇帝との間で成立し、デンマークは三十年戦争の舞台から退場する。
しかしデンマークはその後の三十年戦争には再参戦せず、後に最大の敵となってしまうスウェーデンに対し、友好関係を深めることも、明確な反スウェーデン包囲網を構築することもなかった。神聖ローマ皇帝に対しても和解するような態度を取り、ハーグ同盟の結束は緩まった。結局デンマークは、その曖昧な政策により同盟諸国からの攻撃を受け、北欧の覇権を失うと共に、三十年戦争の勝利国としても名を連ねることが出来なかった。
なお、イングランドも当初はドイツに軍を派遣したり、フランスとハーグ同盟を結んだり、マンスフェルトに資金提供したりして三十年戦争に介入していたが、フリードリヒ5世の義父だったイングランド王ジェームズ1世が1625年に亡くなりチャールズ1世が即位すると、側近のバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズはフランスとの協調外交で反ハプスブルクとプファルツ救援を掲げてスペインのカディスに艦隊を派遣した。ところが、マンスフェルトの大敗及びカディスの遠征失敗でバッキンガムは人望を失い、1627年にフランスに宣戦布告したがフランス・スペインの同盟締結でフランスも敵に回してしまい、ラ・ロシェル包囲戦の敗北でバッキンガムは更に権威を失墜、イングランド議会からも費用の無駄遣いと外交の失敗を責められ、1628年にバッキンガムが暗殺されるとチャールズ1世は1629年にフランスと、1630年にスペインと和睦して三十年戦争から手を引いた。このとき、スペインからイングランドへ大量のメキシコ銀が流入した[15]。以後チャールズ1世は財政再建を進めようと専制政治を行い、それが元で議会と衝突して1642年に清教徒革命を引き起こし、三十年戦争終結後の1649年に処刑されイングランド共和国の成立に繋がった[16]。