三十年戦争 Ⅱ【前】背景・
ボヘミア・プファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争)
当時のボヘミアはカトリック派であるハプスブルク家の支配下にあり、新旧両教徒の間でたびたび軋轢が生じていたが、ボヘミア王を兼ねた神聖ローマ皇帝達は、プロテスタントの勢力が大きくなると妥協し信仰を認めた。時の皇帝兼ボヘミア王マティアスも両教徒の融和政策を進めていた。
しかし1617年、熱烈なカトリック教徒のフェルディナント2世は、ボヘミア王に選出されると新教徒に対する弾圧を始めた。翌1618年、弾圧に反発した新教徒の民衆がプラハ王宮を襲い、国王顧問官ら3名を王宮の窓から突き落とすという事件が起きた(第二次プラハ窓外投擲事件)。プロテスタントのボヘミア諸侯はこの事件をきっかけに団結して反乱を起こした。これが三十年戦争の始まりである。
フリードリヒ5世(冬王)
反乱諸侯は他のプロテスタント諸侯に協力を呼びかけ、ウニオンの賛同を得た。翌1619年にマティアスが死去し、フェルディナント2世が神聖ローマ皇帝も兼ねるようになると、ボヘミア諸侯は議会で国王を廃し、ウニオンの中心的存在だったプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王に迎え、皇帝に対抗しようとした。
フェルディナント2世はスペイン・ハプスブルク家やバイエルン公マクシミリアン1世などのリーガ諸侯の援助を受け、プロテスタントながらフリードリヒ5世と反目していたザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世も味方につけ、ティリー伯を司令官とする軍を派遣した。一方のボヘミア諸侯はウニオンから援軍を得られず、フリードリヒ5世も1620年9月にプファルツをアンブロジオ・スピノラが率いるスペイン軍に占拠され、11月8日の白山の戦いで大敗し、反乱は鎮圧された。フリードリヒ5世はわずか1年と4日で王位を追われた(冬王と呼ばれる)。
スペイン軍は1621年にオランダとの戦争に向かい、プファルツを引き払いネーデルラントへ北上、ウニオンもスペインとの協約で解散した。フリードリヒ5世は空白地帯となったプファルツの奪還を図ったが、1622年にティリー率いるリーガ軍がプファルツに侵攻したためネーデルラントへ逃れた。彼はその後も復位を狙っていたが、スウェーデン王グスタフ2世アドルフの戦線復帰要請は拒み、1632年に客死した。
1623年、フェルディナント2世はバイエルン公マクシミリアン1世にプファルツを与え、選帝侯の地位に即けた。これは金印勅書に反するものであったため、諸侯の怒りを買うことになった(三十年戦争が長期化した一因とも言われている)。
これ以後、ハプスブルク家のボヘミア支配は強固なものとなった。とりわけ1627年の新領法条例によって議会は権力のほとんどを奪われ、ボヘミアはハプスブルク家の属領となった。これにより、多くのボヘミア貴族やプロテスタントが亡命し、ヨーロッパ各地に散らばった。しかし、ハプスブルク家による財産の没収や国外追放といった苛烈な戦後処理は他の新教徒諸侯の離反を招き、戦争が長期化する原因となった。