三十年戦争 Ⅰ【序】大概・目次

 

背景

1555年神聖ローマ皇帝カール5世が署名したアウクスブルクの和議1526年第一回シュパイアー帝国議会を確認するもので、ルター派とカトリックとの戦争を終結させた[9]

アウクスブルクの和議は以下のように定めている。

  • 225のドイツ諸邦の領主は自らの良心に従って、自領の信仰(ルター派かカトリック教会)を選ぶことができ、そして領民にはその信仰に従わせる(「領民は、その土地の宗派を信仰する」(cuius regio, eius religio)原則)。
  • 教会領に住むルター派は各自の信仰を続けることができる。
  • ルター派は1552年パッサウ条約以降にカトリック教会から獲得した領地を保つことができる。
  • ルター派に改宗した司教領主は自らの領地を放棄して、カトリック教会に明け渡す必要がある(reservatum ecclesiasticum(教会領維持) の原則)。

アウクスブルクの和議は一時的に敵対を収束させたものの、宗教紛争の根本的な解決にはならなかった。加えて、続く数年間にカルヴァン派がドイツ中に急速に広まっていた。カルヴァン派がこの地域における第3の宗派となったが、彼らの地位はルター派とカトリック教会のみを対象としたアウクスブルクの和議では一切確認されていなかった [10][11]

神聖ローマ帝国に隣接する諸国もまた、三十年戦争の勃発に関与していた。

  • スペインは帝国の西部国境にスペイン領ネーデルラントを領しており、イタリア内の諸邦からネーデルラントに至るスペイン回廊[注 4]を通じてつながっていることから、ドイツ諸邦に関心を持っていた。1560年代にはネーデルラント人による反乱が頻発しており、反乱の過程で親スペインの南部10州(後のベルギールクセンブルク)と反スペインの北部7州(後のオランダ)に分割、これが1609年の和平協定まで続く八十年戦争となる。
  • フランスはスペインと神聖ローマ帝国の2つのハプスブルク家に囲まれており、また弱小ドイツ諸邦に影響力を及ぼすことを望んでいた。この王家の関心は宗教のそれを上回り、結果としてカトリックのフランスがプロテスタント側で参戦することになる。
  • スウェーデンとデンマークはバルト海沿岸の北ドイツ諸邦の獲得を狙っていた。また、スウェーデン王グスタフ2世アドルフによる「古ゴート主義」も参戦する動機の一つとなった。

神聖ローマ帝国は各々に割拠する独立性の高い諸邦の集まりであった。神聖ローマ皇帝位は有名無実なものであったが、帝位を持つハプスブルク家自身は帝国の大きな部分(オーストリア大公領ボヘミアそしてハンガリー)を直接支配していた。オーストリアはそれ故に自らの力でヨーロッパの列強国であり、800万人を支配していた。帝国はまたバイエルン、ザクセン、ブランデンブルク、プファルツ、ヘッセン方伯トリーア大司教ヴュルテンベルク(各々の人口は50万人から100万人)といった地域勢力を含んでいた。その他にも公領、自由都市、修道院、司教領主そして小領主(中には領地が1村だけのものもある)といった膨大な数の諸邦があった。オーストリアとバイエルンを除いて、これらの諸邦には国家レベルの政治に関与する能力はなく、子孫への分割相続によって生じた一族関係による同盟が普通である。

16世紀後半を通して宗教対立は根強く残っていた。アウクスブルクの和議は幾人かの改宗司教が彼らの教区を放棄することを拒み、加えてスペインと神聖ローマ帝国におけるハプスブルク家及び他のカトリック君主達がこの地域にカトリックを復活させようと図ったために崩れ始めた。これはケルン大司教領主のゲプハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルクドイツ語版英語版)がカルヴァン派に改宗したことによって引き起こされたケルン戦争英語版)(1583年 - 1588年)によって明らかである。ゲプハルトは選帝侯であり、プロテスタントが多数派のケルン領主が神聖ローマ皇帝を選ぶことになる(それまで、選帝侯はカトリックに独占されていた)。

フェルディナント1世はドイツとボヘミアのカトリックのために両形色の聖体拝領を認めるためのトリエント公会議を開催させた。

ケルン戦争でスペインはゲプハルトを追放して、カトリックのエルンスト・フォン・バイエルンドイツ語版英語版)(バイエルン公ヴィルヘルム5世の弟)に交代させた。この成功によってカトリックは勢いを取り戻し、バイエルン、ヴュルテンベルクその他の諸邦で「領民は、その土地の宗派を信仰する」(cuius regio, eius religio)原則をより一層厳しく押しつけ始めた。これはルター派住民に改宗か追放かを強いることになった。また、ルター派はプファルツ選帝侯領1560年)、ナッサウ(1578年)、ヘッセン=カッセル1603年)、そしてブランデンブルク(1613年)といった諸侯のカルヴァン派への離脱をも目にさせられた。このため、17世紀初めにはラインラントドナウ川南方はカトリックになり、ルター派は北部において優勢で、カルヴァン派は中西部、スイス、ネーデルラントなど他の地域で優勢となった。しかし、いずれの地域にも少数派はおり、幾つかの領地や都市ではカルヴァン派、カトリックそしてルター派はほぼ均衡していた。

カール5世に続くハプスブルク家の皇帝(フェルディナント1世マクシミリアン2世ルドルフ2世マティアス)は、同族のスペイン王家の激怒にもかかわらず、帝国内の諸侯が自らの信仰を選択する政策に満足していた。これらの君主達は抑圧なしに新しい信仰が帝国内に広がることを認めることによって宗教紛争を回避していたが、この政策は宗教統一を目指す者たちを怒らせていた[13]。一方、ルター派のスウェーデンとデンマークは帝国内のプロテスタントを援助して政治的経済的影響力を得ようと考えていた。

1606年、自由都市ドナウヴェルトにおいて宗教対立は暴力に発展した。ここでは多数派のルター派が、シュヴァーベンのカトリック住民による賛美歌行進を禁じたことから暴動が発生した。これはカトリックのバイエルン公マクシミリアン1世による介入を引き起こした。暴動が収束すると、ドイツのカルヴァン派は脅威を感じ、1608年にプファルツ選帝侯フリードリヒ4世(息子のフリードリヒ5世はイングランド王ジェームズ1世の娘エリザベスと結婚している)[14]を盟主に仰ぎ、互いに結束するためのウニオン(プロテスタント同盟)を結成した。この同盟に対抗するためカトリックは1609年にマクシミリアン1世を盟主とするリーガ(カトリック連盟)を結成している。

1617年、神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王マティアスが跡継ぎなく死ぬことが明らかになった。その領地は従弟で最近親の男子であるフェルディナント2世に相続されることになる。