ベトナム戦争 Ⅳ・20年:1955年11月 - 1975年… 

ドンケ攻撃

1950年夏にはベトミンは全土総攻撃作戦の第四〇作戦の展開を決定、9月16日にはドンケ攻撃を開始、フランス軍200名は全滅した。

1950年12月にはサイゴンにてフランスのジャン・ルトルノー海外担当大臣とアメリカのヒース公使、ベトナム国のチャン・バン・フー首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれ、アメリカはフランス軍とインドシナ三国に軍事援助を開始した。

ベトナム労働党と「中国モデル」の導入

戦争中の1951年2月の党大会でホーは偽装解散していたインドシナ共産党を改組し、ベトナム労働党とした[62]。この大会でホーはスターリンを「世界革命の総司令官」、毛沢東を「アジア革命の総司令官」と呼び、さらに中国共産党の劉少奇が1949年11月に発表していた民族統一戦線、共産党による指導、武装闘争と根拠地などに関するテーゼを採用し、中国共産党による「革命」をモデルとした。しかしこうした急進的かつイデオロギーに固執した「中国モデル」の採用は1953年から本格的に開始された農地改革において、ベトナム伝来の農村社会に大きな混乱をもたらした。ベトナムの農地改革は中華人民共和国から派遣された顧問の指導のもとで実施されたが、「農村人口の5%は地主」とする規定を機械的に導入し、そのため、地主や富農ではない民衆が人民裁判にかけられて処刑されたりした。

ディエンビエンフーの戦いとフランス軍の敗退

ディエンビエンフーで戦うフランス兵

フランス軍の現地兵とモロッコアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人達の士気は低く、敢闘していたのは外人部隊と志願兵からなる落下傘隊員であった。ヴォー・グエン・ザップ将軍指揮下のベトミンによる組織的な反撃を受け、1953年に入るとフランス軍は空母を派遣するなど立て直しを図るものの、点を確保するのみで[70]劣勢に立たされていた。1953年4月時点で米国もインドシナ情勢におけるフランス軍は危機的な状況にあるとみていた。米陸軍は大統領安全保障会議への報告において、

  1. 米国が介入しても、空軍・海軍のみでは勝利は難しい
  2. 原子爆弾を使用しても、敵軍の兵力削減は難しい
  3. 米国勝利のためには七個師団が必要

といった提言を行っている。

ディエンビエンフーの戦い

詳細は「ディエンビエンフーの戦い」を参照

1953年11月20日にはフランス軍はカストール作戦を実施、ベトミンが展開するラオス国境に近いディエンビエンフー盆地を12000の兵力で占領し、橋頭堡としての要塞をつくることで、ベトミンの動きを封じようとした。フランス側はベトミンが重火器を持っていないまたは持っていたとしても使いこなせないと予想していた。しかしベトミンは現地の少数民族の支援もあって中国から供給された重火器をディエンビエンフー盆地を囲む山上まで運んでいた。1954年3月、ベトミンは戦闘を開始、攻撃開始日からベトミン軍は猛烈な砲撃を加え、人海戦術により独立高地に設けた2個のフランス軍陣地は陥落した。フランス軍は劣勢となり3月末には滑走路も使用不可能になり、4月には3個空挺大隊と近接航空支援を増強したが、雨季の天候は空軍の活動を制限した。対し、ベトミン軍の夜襲は次々とフランス軍陣地を攻略し、末期には周囲2kmの範囲のみを保持するのみで、5月7日にフランス軍は降伏、残った約1万人のフランス兵は捕虜となった。このディエンビエンフーの戦いでフランス軍は敗北し、事実上壊滅状態に陥る。ディエンビエンフーの戦いにおけるフランス軍降伏について、東京大学教授古田元夫は「ヨーロッパの万を超える精鋭部隊が、植民地現地の軍事勢力に降伏した世界史的出来事で、植民地体制の崩壊を象徴する事件」と指摘している。

フランス軍降伏の報せを聞いたアメリカのリチャード・ニクソン副大統領は、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する小型原子爆弾の使用をドワイト・D・アイゼンハワー大統領に進言したが却下された。またアメリカの統合参謀本部はフィリピンに展開しているボーイングB-29爆撃機による支援爆撃を主張したが、アイゼンハワー大統領はこれも却下した。

ディエンビエンフー陥落後も、ベトミンはトンキンデルタに展開するフランス軍にゲリラ攻撃を仕掛け、各地の攻撃を実施した。同年6月にフランス軍はプーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ-ハイフォン回廊に撤退し、ここに至りフランス軍の敗北は決定的となる。

ジュネーブ協定と南北分断

フランス軍の危機的な状況が国際社会に認知されていくなか、1954年4月26日にはスイスジュネーヴに関係国の代表が集まり、和平交渉としてインドシナ和平会談ジュネーヴ会談)が開始された。参加国は当事国のフランスとベトナム国、ベトナム民主共和国、さらに、アンソニー・イーデン外務大臣を議長として送り込んだイギリスとアメリカ、カンボジア、ラオス、ソ連、中華人民共和国であった。会議は3カ月続き、フランス軍が壊滅した1954年7月、インドシナ和平会談において関係国の間で和平協定であるジュネーヴ協定(インドシナ休戦協定)が成立した。

これにより第一次インドシナ戦争の終結とフランス軍のインドシナ一帯からの完全撤退、並びにベトナム民主共和国の独立が承認された。北緯17度を南北の暫定的軍事境界線とし、南北を分割、また南北統一のための自由総選挙を1956年7月までに実施するという内容だった。ただし、アメリカと南ベトナムは調印に参加しなかった[73]。ベトナム民主共和国がこの内容に妥協したのはアメリカの参戦を警戒したためで、ソ連と中華人民共和国もベトナムに譲歩するよう強く求めた。

1954年4月28日から5月2日まで、セイロンのコテラワラ首相が提唱しコロンボ会議が開催され、インド、パキスタン、セイロン、ビルマ、インドネシアの首脳が集まり、インドシナ戦争の停止などを訴え、ジュネーブ会議にも影響を与えたほか、とくにイギリス連邦の中心であるイギリスはジュネーブ会議においてアメリカの戦争拡大方針に同調しなかった。

アメリカ合衆国のインドシナ半島への本格的介入

南部ベトナムへ逃れる難民

このころ、休戦交渉と平行して、ジュネーブ協定が締結される直前の1954年7月7日、バオ・ダイ時代に内相をつとめ、反共産主義でカトリック教徒のゴ・ディン・ジエム(呉廷琰)政権が、アメリカの根回しで樹立されていた。さらに1954年9月27 - 29日のワシントンでの米仏会談で、インドシナ駐留フランス軍への援助は解消され、アメリカは1955年1月からインドシナ諸国に対して直接の援助を行うことを決定した[77]。1950年10月にサイゴンで組織されていたインドシナ米軍事援助顧問団(MAAG)は、1955年11月に南ベトナム米軍事援助顧問団へと改組され、南ベトナム政府軍の軍事教練が開始した。団長はサミュエル・ウィリアムズ将軍。

アメリカは、ジョージ・ケナンらが提唱する、冷戦下における共産主義の東南アジアでの台頭(ドミノ理論)を恐れ、フランスの傀儡政権だったベトナム国を17度線の南に存続させ、ベトナムは朝鮮半島やドイツと同様、分断国家となった。

南北の境界線が確定された際、ベトナム国民が双方の好む体制側に移動することがジュネーブ協定によって認証され、60日間の猶予で行なわれたが、北ベトナムの総人口1300万のうち、100万人が南ベトナムへ移動、逆に南から北へ移動した国民は9万人にであったという。また、宗教の存在を否定する共産主義者による統治を嫌う北ベトナムに住むカトリック教徒の多くは、ベトナム民主共和国の独立に伴いベトナム国へ難民として逃れた。