ベトナム戦争 Ⅲ【20年】!?1955年11月 - 197…
士官学校とインドシナ残留日本兵[編集]
ベトミンはソ連と中国共産党からの軍事支援を受けるまでは装備も乏しかったが、1946年4月には独自の軍士官学校を二校設立した。一校は北部ソンタイにあり、教官は日本軍に追われて以来ベトミンに合流していたフランスインドシナ軍の下級将校であった[48]。もう一校は中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校で教官は元日本軍の士官や下士官であった[48][49]。このような残留日本兵は「新ベトナム人」とよばれた[50][51]。日本軍インドシナ駐屯軍参謀の井川省少佐はベトナム名レ・チ・ゴといい、ベトミンに武器や壕の掘り方、戦闘指揮の方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを提供した。また井川参謀の部下の青年将校中原光信はベトナム名をヴェト・ミン・ゴックといい、第二大隊教官としてベトミンに協力した[48]。ほかにも石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)らがいた[52][53]。 日本敗戦後、ベトミンに協力したインドシナ残留日本兵は766人にのぼる[54]。また、武器は中国共産党から提供されたが、多くは日本軍から略奪したもので、38式小銃などが多かった[55]。中国軍の武器は自動小銃だった[55]。
勃発[編集]
詳細は「第一次インドシナ戦争」を参照
1946年11月20日、ハイフォン港での銃撃事件を口実にフランスとベトミンとの間で全面交戦状態が始まり、インドシナ戦争(第一次インドシナ戦争)が勃発した。フランス軍は12月19日にハノイのベトナム民主共和国政府へ武力攻撃を開始し、12月20日、ホーチミンは全国抗戦声明を発表した[56]。
われわれは平和を切望し妥協を重ねてきたが、妥協を重ねれば重ねるほどフランスはわが国を征服しようとしている。われわれは犠牲を辞さない。われわれは奴隷とはならない。すべての老若男女に訴える。主義主張、政治性向、民族を問わず、立ち上がり、フランス植民地主義と戦い、国を救おう---ホー・チミン抗戦声明[56]
フランスは、国民の人気が高かったバオ・ダイ帝を担ぎ出し、1948年6月5日にサイゴンに「ベトナム臨時中央政府」を発足させる[56]。大統領はグエン・ヴァン・スアン[56]。翌1949年3月にはサイゴン市(現ホーチミン市)を首都とするベトナム国を樹立する[38]。フランスはバオ・ダイ政権を唯一の正当な政府と宣言し、ベトミンを徹底的に弾圧すると表明した[56]。
冷戦(ソ連、アメリカ、中華人民共和国の介入)[編集]
第二次世界大戦後はアジア・アフリカの植民地で、支配国である連合国に対して独立運動が激化していた。1945年にはインドネシア、ベトナム、10月にラオスが、1946年にはフィリピン、1947年にはインドがパキスタンと分離独立、1948年には2月にセイロン(スリランカ)が、同年にはビルマや、また大韓民国が8月13日に独立した。1949年には国共内戦で中華民国軍に勝利した中国共産党によって中華人民共和国が樹立した。
1947年3月にはインドのネルーがアジア関係会議が開催され、29カ国が集まり、非植民地化の推進やアジアの連帯が協議された[57]。1948年末にオランダ軍が第二次治安行動を開始し、インドネシア共和国のスカルノを逮捕したことに抗議してビルマのウ・ヌー首相はインドのネルー首相によびかけ、1949年1月にニューデリーでアジア独立諸国会議が開催された[57]。
植民地の維持を目論むイギリスやオランダ、フランスなどの旧宗主国と、長年の過酷な植民地支配を受け続けた上に、一旦は日本軍によって放逐された宗主国の姿を目の当たりにして解放を欲する植民地国民の間でしばしば紛争が頻発した。アジアでは、戦勝国であるソ連政府とアメリカ政府のいずれかによって指導・支援されている例が多かった。スターリン政権のソビエト連邦は、トルーマン政権のアメリカに対抗するために、世界中を共産化するため、共産主義の革命勢力を支援した。米ソ共に核兵器を保有し、直接の全面戦争を避けて、衛星国同士で戦闘を行う「冷戦」構造が成立した。この冷戦は、ベルリン封鎖、朝鮮戦争、インドシナ戦争、ベトナム戦争、キューバ危機に見られるように、「代理戦争」という形で表面化した。ただし、冷戦構造は大国中心であったが、小国からの要請で大国が動くという、「下からの突き上げ・弱者の脅迫」が作用する構造でもあり、ベトナム戦争も単なる「代理戦争」ではなかったという見解もある[58]。
資本主義・自由主義の盟主を自認するアメリカ政府は、中華人民共和国や東ヨーロッパでの共産主義政権の成立を「ドミノ倒し」に例え、一国の共産化が周辺国にまで波及するという「ドミノ理論」を唱え、アジアや中南米諸国の反共主義勢力を支援して、各地の紛争に深く介入していく。とりわけ国共内戦で国民党軍に勝利した中国共産党が1949年10月に中華人民共和国を建国したことは、反共産主義を唱えるアメリカにとって衝撃であり、共産主義封じ込め戦略の観点から、インドシナ戦争においてはフランスを支援することを決定した[59]。
- ホー・スターリン・毛沢東三者会談
1950年1月14日、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の国家承認を求める声明を発表[59]。1月18日、成立直後で自らも国家国際承認を受けてすらいない毛沢東による中華人民共和国は、ベトナム民主共和国を正統政権と認めた[59]。中共による承認を受けてホーは北京に入ったあと、スターリンのソ連による承認をとりつけるためにモスクワに向かった[59]。しかし、スターリンは毛沢東に対しても警戒していたほどであったから、ホーに対しても直接的な支援には消極的だったが、結局、毛沢東の仲介でスターリンとホー・チ・ミンの会談が実現する[60]。1月31日、ソ連もホーの要請を受けてベトナム民主共和国を正式に承認した[61]が、ホー・チ・ミンへの直接的支援は断り、ベトナムの支援は中国の課題であると答えた[60]。その後、ホーと毛沢東は北京で会談、毛は武器援助・資金援助を約束し、1950年4月にはホーチミンは中国から借款と兵士二万人分の装備提供を受けた[55]。
朝鮮戦争[編集]
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、中華人民共和国はアメリカが、朝鮮・台湾海峡・インドシナの三方面から攻撃してくる可能性に危機感をつのらせ、ベトナムへの軍事顧問団の派遣を実施する[62]。のちにソ連、チェコからはバズーカやトラックが提供された[55]。こうした提供に対してベトミンはタングステンや錫、米、ケシなどで支払った[55]。中華人民共和国などから援助を受けたベトミンは1950年末には、精強師団を結成する[55]。
ベトナムに展開するフランス軍兵士。後方にアメリカから貸与されたグラマンF8F戦闘機が写っている
他方、フランスは1950年2月16日のアンリ・ボネ駐米大使とアチソン国務長官との対談で米国による支援を要請する[63]。1950年5月25日、ハリー・S・トルーマン政権下の米国はフランス軍支援を決定する[63]。1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争を受けて、トルーマン大統領は国際共産主義運動をファシズムと規定し、朝鮮戦争において共産主義勢力が従来の政治宣伝を中心とした間接侵略から、武力行使による直接侵略に移行したとみなし、国連の緊急安全保障理事会でも北朝鮮の行動を「平和に対する侵犯」とみなし、北朝鮮への非難決議案を提起、ソ連は国共内戦に勝利した中国共産党が中国本土に中華人民共和国を樹立したにも関わらず、台湾島に逃げた中華民国が常任理事国議席にあることに抗議して欠席していたため、決議案は可決した[64]。トルーマンは米軍を韓国だけでなく、中華民国にも第7艦隊を派遣し、またフィリピンやベトナムへの軍事援助の強化を発表[64]、朝鮮戦争が開戦してから4日後の6月29日には輸送機C47機がサイゴンに到着する[63]。国連での非難決議を無視して北朝鮮はソウルを陥落させるなど進撃を続けたため、6月30日に米政府は地上軍を朝鮮に派遣することを決定、7月には国連軍派遣が決定する。しかし国連軍は11月には総崩れとなり、トルーマンは原爆の使用を示唆する[65]。急遽、イギリスのクレメント・アトリー首相がワシントンに行き、トルーマンの説得を行った[66]。こうして共産主義圏と自由主義圏との冷戦構造が明白なものとなる。
以降、アメリカからの援助は1952年度までに年額約3億ドルに及び、ドワイト・D・アイゼンハワーが大統領に就任した1953年には約4億ドルに上った。4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上、医薬品、無線機などが送られている。また、アメリカ軍事顧問団は約400人程度が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊の教育訓練を開始し、フランス軍の兵力不足を補うべく活動した。アメリカからの軍事支援を受けたフランス軍は、ソ連や中華人民共和国からの軍事支援を受けたホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国軍と各地で鋭く対立を続け、アンリ・ナヴァール将軍指揮下の精鋭外人部隊など、クリスティアン・ド・カストリ大佐を司令官とする1万6200人[67]の兵力を投入し、ベトナム民主共和国軍との戦闘を続けた。
- ドンケ攻撃