軍事史(ぐんじし:military history、his…

 

古代

古代ローマの重装歩兵(再現)

青銅器時代に入ると、金属加工技術の発達により刀剣が作られるようになった。鉄器時代には鉄の刀剣が作られ、やがて鉄を高温の炉で精錬した鋼が用いられるようになった。

古代の農業技術では多くの人口を扶養できる土地は限られていたうえに農業生産は安定しなかったので、農業経済に依存する人々は生存をかけて共同体ごとに結集し、豊かな耕地や収穫物、水利権などを奪い合った。古代の農耕社会を基盤とする都市国家や専制帝国軍隊の中核となったのは、しばしば自由身分の経済力ある農業経営者が、自弁ので身を固め、を装備した重装歩兵である。農耕社会ではは主に戦車チャリオット)を牽引するために利用され、騎兵はしばしば同盟関係にあった遊牧民からの援軍を仰いだ。考古学の見地ではヒッタイトやエジプトで見られる戦車(チャリオット)による戦闘がもっとも古く、おそらくこれを駆逐する形で騎馬部隊による戦闘がこれに代わり、ついで重装歩兵による軍制がこれに置き換わっている[1]。古代の軍制については文献がとぼしく、考古学史料などからの推測による点が多い。この時代における兵器・武装の技術進歩と軍隊運用の優劣については古代軍事史における大きな謎の一つであり現代でも十分に解明されたとはいいがたい。

組織化された軍隊を歴史上最初に保有したことが記録に残るのはシュメール人であった。後にエジプト中国でも同様の軍隊が出現したことが確認される。紀元前7世紀頃に古代ギリシアが編み出したファランクスは、重装歩兵が数列の深さの横隊に並び、長槍の穂先を並べて突進するもので、古典古代地中海世界からオリエントにかけての地域において、大きな戦力とされた。やがてファランクスは横長の長方形の陣形から片側だけを厚くする斜線陣など特殊な運用も生み出し、あるいは弱点である側面に騎兵を置くなどして強化され、ペルシア戦争(紀元前492年 - 紀元前449年)においても活躍した。アレクサンドロス大王の東征ではマケドニア軍のみならず、アケメネス朝ペルシア側にも多数のギリシア人傭兵が参加しておりこれを用いた。その後も地中海世界からオリエントにかけて各地で多用されたが、ファランクスには小回りが利かないという弱点もあった。古代ローマレギオン戦術はより柔軟で、投石機投槍で敵の隊形を崩し、グラディウスを手にして散開して戦った。ローマのレギオンは、マケドニア王国のファランクスをキュノスケファライの戦い(紀元前197年)で破り、古代世界の覇者となった。

また、文字の出現によって軍事上の事跡が記録されるようになった。初めのうちこれはイリアスオデュッセイアのような英雄物語であったが、後には戦争を客観的な記録として残す軍事史家や、戦争に勝つための方法を研究する軍事学者が現れた。例えば現代でも有名な古代の軍事学者に孫子がいる。彼は戦争と政治の関係、戦術、諜報などに関する優れた著作を残した。

中世

銀のアングリア騎士像

古代において、農耕社会の国家において騎兵は補助的な役割であったが、の品種改良が進み、をはじめとする馬具が発明されたことで、遊牧民出身の騎兵でなくともそれなりの戦力を確保できるようになり、また機動力と突撃力が増大した。馬の生産に携わり、その扱いにも長けた遊牧民の騎兵部隊は、古くから農耕社会の鈍重な歩兵部隊を翻弄したが、そうした戦力をある程度農耕社会の軍隊も保持できるようになった。そうすると逆に、鐙などの新技術は遊牧民の世界にも逆輸入され、遊牧騎兵の戦闘技術をさらに向上させた。こうして中世においては農耕社会の国家においてすら騎兵が戦場の主役となったうえ、農耕社会と遊牧社会を統合する社会変動が引き起こされていった。

4世紀、遊牧民のフン族ゲルマン人の大移動を引き起こして西ローマ帝国の存立を脅かし、匈奴鮮卑中国の農耕社会に浸透して、後世の歴史家に胡族国家と呼ばれる、遊牧・農耕複合政権を打ち立てた。7世紀にはやはり遊牧民をその重要な構成要素とし、それに都市民や農民も交えたアラブ人が、イスラム教のもと結束を成し遂げ、中近東の広大な地域を征服した。こうした騎兵を主体とする勢力に対抗するため、東ローマ帝国の軍隊の中核は重装歩兵から重装騎兵カタフラクト)へと移り、胡族国家の系譜を引くといった中華王朝の軍隊も、騎兵主体の軍勢を中核としていた。

農耕社会であった中世の西ヨーロッパにおいて重装騎兵を務めるためには、優れた技量と精神的・肉体的な鍛錬、そして馬を養うだけの経済力が必要であった。遊牧民は幼少時から牧畜という生産活動に従事してこれを学びつつ、優秀な騎兵となる技量を身につけるが、農耕社会において一般庶民の生産活動は、騎兵の技術を身につける生活とは著しく乖離しているからである。そのため、特別に幼少時からの特殊訓練と、それを保障する財産を与えられた階級が養成され、騎士階級が誕生した。日本武士もこれに似た面がある。

騎兵を戦略的・戦術的に最大限に活用したのがモンゴル帝国であった。モンゴル人の兵士は家畜の群れと共に数千キロを移動し、戦場では数頭の馬を用意して、1頭が疲れたり傷つけば馬を替えて戦い続けることができた。こうした戦術自体は伝統的な中央ユーラシアの遊牧民のものであったが、チンギス・ハーンは旧来の部族組織を解体し、自らの直属の家臣団のもとに全遊牧組織を再編成して優れて戦略的に遊牧軍団を展開することを可能にした。モンゴル人はチンギス・ハーン家のもと、13世紀に史上最大の帝国を作り上げた。

ただし中世における騎兵は無敵であったわけではない。トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)の例に見られるように騎兵のみでは歩兵の方陣密集隊形を突き崩すことはできなかったし、百年戦争(1337年 - 1453年)中のクレシーの戦い(1346年)では、イギリス軍のロングボウ部隊によってフランス軍の騎士たちは一方的に射殺されている。また近年の研究では、中世の戦場における歩兵の重要性が再評価されている。

近代

ネイズビーの戦い(1645年)当時の歩兵(再現)

近代は火器の発達が著しい時代であった。火薬を発明したのは中国人であり、代には火器が使用されたという記録が残っている。だが火器を最初に戦場で大量に使用したのはユーラシア大陸西方のヨーロッパ人諸国家、イスラム世界のオスマン帝国ムガル帝国であった。火器の登場は戦争の様相を、そして諸民族の運命と世界史の流れを大きく変えた。ユーラシア西方社会における火器の大量使用は、東ヨーロッパにおけるフス戦争(1419年-1436年)におけるフス派の戦術をもってその嚆矢とする。

大砲はオスマン帝国によるコンスタンティノープル攻略(1453年)で初めて本格的に使用された。当時のウルバン砲は1日に数回発射するのがやっとというものであったが、その後改良され、イタリア戦争(1521年 - 1544年)では中世式の石積みの背の高い城壁を破壊した。これ以降、城壁は背が低く厚みのある土塁へと変化していった。一方で防御側としても、同時期に登場したの威力を活用し、攻め寄せてくる敵に十字砲火を浴びせられるよう、城壁から外向きに突き出した稜堡が築かれるようになった。また、城壁そのものも切り立った石壁によって敵兵の登攀を妨げる様式から、当時の非炸裂式の大砲弾が進軍する歩兵の密集隊をなぎ倒しやすいように、外面が緩やかな斜面として設計されるようになった。こうして稜堡式城郭が発達していった。

チャルディラーンの戦い

は百年戦争の時代に原型が存在したが、まずオスマン帝国のイエニチェリで大規模に採用された。オスマン帝国では当時最も有力な騎馬戦力のひとつであったテュルク系の遊牧民騎兵を、1473年のバシュケントの戦いと、1514年チャルディラーンの戦いにてイエニチェリの小銃射撃で大いに破り、西アジアから東ヨーロッパにかけて覇権を築いた。次いでオスマン帝国と同じイスラム世界では、ムガル帝国を起こしたバーブルが銃を本格的に採用している。バーブルは1526年にはパーニーパットの戦いで銃を多用し、インド北部を支配するローディー朝戦象を多数擁する軍勢を破り、インド支配の端緒を築いた。

西ヨーロッパで初めて本格的に使用されたのはパヴィアの戦い(1525年)である。この戦いで、スペイン軍の1,500挺のアルクビューズ(火縄銃)の前に、騎士を主力とする2万のフランス軍は大敗した。日本での長篠の戦い(1575年)も同様の展開となったとされるが、この戦闘における騎兵の役割に関しては議論がある。また、日本における銃の運用は、弾幕重視の大陸系小銃運用術と異なる狙撃重視のものであったとする指摘もあり、今後の比較研究が待たれる。以降、西ヨーロッパでは騎兵の突撃は銃の弾幕射撃によって封殺させられ、軍隊の編制は歩兵を主軸として騎兵と砲兵が支援するという三兵戦術が主流となった。西アジアや中央アジアでは遊牧民の軽騎兵がもっとも強力な兵力であったが、これと同時に火器を運用するのに成功した勢力が覇権を握るようになっていった。

ヨーロッパ人が火器を手にしたことで、非ヨーロッパの先住民族の軍隊の中には、ヨーロッパの軍隊に対して全く対抗できないものも出るという事態が生じた。大航海時代に、火器と騎兵をまったく知らないアメリカ大陸アステカ帝国インカ帝国は、マスケットを持った少数のコンキスタドールたちの火力と騎兵運用によって滅亡させられた。一方、アフリカアジアではヨーロッパ勢力の進出以前に火器の普及は一定の進展を見せており、特に北アフリカからユーラシア大陸内陸部にかけての地域(アフロ-ユーラシア世界)で同時代的に大帝国を築いていたオスマン帝国、ムガル帝国、帝国といった当時のポスト・モンゴル帝国時代に覇を競った諸王朝は、どれも遊牧民に出自する強力な騎兵と、小銃・大砲を操る歩兵の大部隊を擁した。そのため、アフロ-ユーラシアの内陸世界は当時のヨーロッパ勢力には軍事的に容易に制圧できる相手ではなく、いくつかの拠点となる港湾都市と島嶼域の海洋国家勢力を制圧するに留まった。ヨーロッパ人が真に世界の広大な地域を面的に植民地とし、ほとんどの先住民族を支配下に置くのは、蒸気船の登場により大兵力を迅速に移動できる体制の確立を待つこととなる。

銃の弾幕射撃は防御には優れていたが、近接戦闘能力と、敵陣を突破する攻撃力には欠けていた。この課題を克服するため、はじめはテルシオのようなパイク兵(槍兵)と銃兵との混合隊形が試みられた。後に銃剣が発明されると銃兵と槍兵をひとりの兵が兼ねることとなり、近接戦闘能力は補強された。さらに、七年戦争(1756年 - 1763年)でフリードリヒ大王に敗北を喫し、その戦術を徹底的に研究したフランス軍は、防御には横隊に展開して射撃し、攻撃には縦隊に隊形変換して突撃するという柔軟な歩兵戦術を完成させた。そのためにフランス軍は、暴力的に徴発されて常に密集隊形をとらなければ脱走兵が続出したプロイセンのようなドイツ諸国などの軍隊と異なり、兵を人道的に取り扱う試みがブルボン朝後期から行われるようになったが、フランス革命を経て国家国民の財産、戦争を国民の財産たる国家の防衛戦と考える革命軍への変質によって、フランス軍の隊形変換はより柔軟かつ迅速に行うことが可能となった。この歩兵部隊を率いたナポレオン・ボナパルトはヨーロッパを席巻した。