彡(゚)(゚)「世界各国の旧君主家の方々」【前半】CPP=… 

 

彡(゚)(゚)「それじゃあ行くで」 

 

 

17: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:31:07 ID:fRt

アルバニア ゾグ家 王太子 継承法:男子限定長幼制

レカ2世・ゾグ


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彡(゚)(゚)「まずゾグ家について説明するわ」


彡(゚)(゚)「ゾグ家は16世紀にゾグ・パシャという人物が創りだしたんや
     アルバニアの英雄スカンデルベグの死後ちょっと後の時代の人やで」


彡(゚)(゚)「ゾグ・パシャの出生はよく分からない。現在のアルバニアのマテ県の北の方で生まれて
     コソボの三つの有力氏族のうち一つの出身だったようや」


彡(゚)(゚)「当時のアルバニアはオスマン帝国と戦闘していたんやがゾグ・パシャはオスマン帝国から
     “神の怒り”とあだ名されるほど勇猛・有能な人物だったらしいで
     オスマン帝国の皇帝がマテ県の支配者として正式に要請する程な」


彡(-)(-)「ゾグ・パシャは受けれいれる事無く本腰を上げたオスマン帝国軍の手にかかり戦死。
      アルバニアはオスマン帝国に支配されたンゴ」


(´・ω・`)「ゾグ家はどうなったの?」


彡(゚)(゚)「存続したで。オスマン帝国のもとでマテ県を統治しつつ
     軍事力を強めてオスマン帝国の寝首をかこうとしていたんや。
     四代目当主のアヴドゥッラー・パシャ・ゾグなんかロシア帝国皇帝に
     オスマン帝国を潰す相談をしたんやと。まぁ無駄骨やったけど」


彡(゚)(゚)「ちなオスマン帝国の影響からかゾグ家の当主は代々スンニ派のムスリムやで」 

 

 

18: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:32:36 ID:fRt

彡(゚)(゚)「つまり当時のゾグ家は王侯貴族とまでは言えんけど、
     アルバニア国内では相当のエリート家系だったってことやな」


(´・ω・`)「でものちに王族になったんでしょ。誰がそうしたの?」


彡(^)(^)「良く聞いてくれました!それはレカ王太子殿下の祖父にあたるアフメト・ゾグが
     後にアルバニア国王ゾグ1世となったからや!」


no title



彡(゚)(゚)「アフメト・ゾグは1895年生まれ。1908年に父のゼラル・パシャ・ゾグが逝去したため
     13歳でゾグ家当主となった 以下同氏をゾグと表記するで」


彡(゚)(゚)「その後1911年の青年トルコ人への反乱に参加したり、マテ県まで攻め込んできた
     モンテネグロ軍と戦闘したり」


彡(゚)(゚)「第一次世界大戦中の1916年から1918年までオーストリア=ハンガリー二重帝国で騎兵として活躍し、
     最終的に大佐の称号を授与されとるで」


(´・ω・`)「23歳で大佐って・・・アニメの世界じゃん」


彡(゚)(゚)「戦争が終わりゾグは何とかして国を発展させようと思ったんや」


彡(゚)(゚)「そこで国内の地主の支持を取り付けて1920年に内閣で内相として抜擢される。この時25歳」


(;゙゚'ω゚')「えちょっと待ってそれいくらなんでも急すぎない」


彡()()「調べてみたんやがよく分からんのだわ・・1920年の政治主導者が参加したルシュニャ会議に
    内相として参加したのが内相としての実務の始まりっぽいんやが
    何故内相として参加出来たのか一切不明 ご存知の方今頼れるのはおめえしかいねぇ!」 

 

 

19: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:34:14 ID:fRt

彡;(゚)(゚)「ま、まぁとにかく1920年に内相となり1921年には防衛大臣を兼任 
      1922年から1924年まで内相と首相を兼任」


彡(゚)(゚)「が、あまりにも急進的かつ独裁的やったからカウンターをくらってしまう」


彡(゚)(゚)「1924年、後のアルバニア正教会の創設者であるファン・ノリをリーダーに掲げた
     ルイージ・グラクーキ等による六月革命が勃発。ゾグは亡命したんや」


(´・ω・`)「正しく自業自得」


彡(●)(●)「実際には1922年に反政府派が首都ティラナを襲撃したり1924年の1月に暗殺計画が練られていたりと
      それ以前からかなりきな臭い状況ではあったそうや」


彡(゚)(゚)「それでもゾグはへこたれんかった。同年12月にユーゴスラビア軍と
     ピョートル・ヴラーンゲリ率いる白軍の協力を付け
     帰国して即座に首都ティラナを攻略。首相であるファン・ノリは亡命」


彡(゚)(゚)「翌年の1925年に議会を解散して大統領選に立候補。そして大統領に当選する」


彡(゚)(゚)「大統領となったゾグはヨーロッパをモデルとした近代的な体制作りをする」


彡(゚)(゚)「と言うのはさっき書いた通りにアルバニアはオスマン帝国の支配下で
     当然法体系もオスマン帝国のものに影響された封建的な、つまり地主が
     大いに権限を振るえるようになっていたんや」


彡(゚)(゚)「更に言うと当時のアルバニアは氏族社会で北と南で言語が違ったりと
     国家・国民意識すら存在しなかった。
     またアルバニアはイスラム教国やから近代化の為にその部分も手を加えたそうだわ」


彡(゚)(゚)「後年ゾグは“私は欧州を求めていた。東洋は必要としていない
     だからキリスト教を国に混交し、いわば結婚させたのだ”と語っているで」 

 

 

20: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:36:06 ID:fRt

彡(^)(^)「国家・国民意識を作りだして国民の宗教観を左右したんだから
     国家の父と言ってもいい存在やね」


(´・ω・`)「こういう急進的な事が出来るのは独裁の強みだね」


彡(゚)(゚)「そして1928年。憲法を改正してゾグは国王に即位したんや」


彡(-)(-)「その際にヨーロッパを模範とした更なる近代的な体制作りの為に
     イスラム教圏の名前である“アフメト”を捨てて
     アルバニアの英雄であるスカンデルベグの後継者というのを強調した
     “スカンデルベグ3世”にする事も考慮したんやが・・」


彡(゚)(゚)「結局とりやめて現在まで知られているアフメトを抜いた“ゾグ1世”にしたんや」


彡(゚)(゚)「こうしてアルバニアはアルバニア王国となったんやがその際に軍も王国軍となったんや
     王国軍とゾグ支持派はその時にゾギスト・サルートと呼称される敬礼を作りだしたんやで」


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(後ろの女性達がしている敬礼がゾギスト・サルート)


彡(゚)(゚)「更にゾグ1世は妹等の親族らを王族にしてな。
     例えばゾグ1世の妹であり王女となったナフィジェは後にコソヴォのジェコヴァ群の
     指導者的存在かつ地主のリザ・ベイ・クリェイジウの息子セノ・ベイと結婚したで」


彡(゚)(゚)「セノ・ベイはユーゴスラビアと親しくてな。上記の亡命の件でユーゴスラビアとの関係を
     設立する為に随分と働いたようや。1923年に一人息子であるタティが生誕し
     後にタティはゾグ1世から王子の位とコソヴォ公爵を叙爵されているで」


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(真ん中の男性がゾグ1世 左から三番目の子供がコソヴォ公爵タティ)


no title

(後年のコソヴォ公爵タティ) 

 

 

21: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:37:41 ID:fRt

彡(゚)(゚)「そして1938年4月、ゾグ1世はハンガリー貴族の娘のアポニー・ゲーラルディネと結婚したんや」


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(´・ω・)「あれ?ゾグ家の家長ってムスリムでしょ基本。ハンガリーってキリスト教国だよね問題なかったの?」


彡(゚)(゚)「問題無かったみたいや。と言うのは上にイスラム教にも手を加えたってあるやろ?
     つまりはまぁ迫害とまではいかんけど大分ムスリムを締め付けていたみたいやで」


(´・ω・`)「うーん、この」


彡;(^)(^)「ま、まぁとにかく翌年の1939年の4月にレカ王太子、後のレカ1世陛下がご生誕なさったんや!」



彡()()「真に喜ばしい出来事だったんやが・・・悲劇が訪れる」


(´・ω・`)「何があったの?」


彡()()「レカ王太子が生誕なさった二日後にイタリア王国が侵攻してきたんや」


(´・ω・`)「それはまた急なタイミングに」 

 

 

22: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:39:31 ID:fRt

彡(-)(-)「というのはアルバニアはゾグ1世が大統領時代からイタリア王国から支援を受けていたんや
     1929年に世界恐慌が起こった以降はより一層な」


彡(゚)(゚)「それに地政学的にもイタリアに王国とってアルバニアは都合が良くてな
     国民意識を形成して中央集権体制を進めたいゾグ1世にとっても
     イタリア王国は無くてはならない存在だったんや」

     
彡(-)(-)「そしてアルバニアは武器、弾薬、燃料と言った重要物質などの援助を受けるなど
     依存を深めて結果的にイタリア王国の経済植民地と化してしまったんや」


彡(゚)(゚)「やがゾグ1世はアルバニアの主権喪失だけは頑なに拒んでな
     イタリア王国との関係を深める以前から関わってきたユーゴスラビア王国との
     外交を樹立 その際にムッソリーニは激怒したというで」


彡(゚)(゚)「そして1939年にヒトラーがチェコスロバキアを併合したのを目の当たりにすると
     本腰を上げてアルバニア占領を決断。アルバニアに最後通牒を突き付けたんや」


彡(゚)(゚)「当然ゾグ1世は拒否してイタリア王国は2万2000人から成る陸軍数個連隊でアルバニアに侵攻。
     あっという間に首都ティラナは陥落」


彡()()「ゾグ1世は陥落の八時間前に慌てて中央銀行から金塊を引き出して
    “神よ、ここまで短いとは!”と吐き捨てて25人の親族と共に亡命したんやで」


(´・ω・`)「そこまで性根が腐っていたとは。消え失せろ二度とその面見せるな」


彡;(゚)(゚)「いやだってしゃーないやんレカ王太子は生まれて二日しか経ってないし
      当時のイタリアはいけいけどんどんやしこれが一番良い選択だったんやワイハソウカクシンシテイル」 

 

 

23: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:41:13 ID:fRt

彡(゚)(゚)「それで亡命先はギリシャだったんやが5月にはトルコへ、8月にはフランス
     1940年に一旦イギリスに落ち着いて」


彡(゚)(゚)「そこから1946年に以前から懇意にしていた
     国王ファールーク1世が統治するエジプトのアレクサンドリアに移動するで」


彡(^)(^)「ファールーク1世は大歓迎してくれてな。ゾグ1世達を厚遇したんや
     レカ王太子もアレクサンドリアで学校に入学させてもらえたしな」


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彡(^)(^)「元々エジプトとアルバニアは共にオスマン帝国統治下の国で、
     またエジプト王国のムハンマド・アリー王朝の祖ムハンマド・アリーはアルバニア人ということもあり、
     軍にアルバニア人を多く入れたりと両国は仲が良かったんや
     ちなファールーク1世とゾグ1世はお互いにポーカーをするくらい仲が良かったんやで」


彡(゚)(゚)「エジプトでゾグ1世は今現在においても有名なムスリム同胞団を指揮する三人の指導者の一人に就く
     当時のエジプトの人口は2000万人でムスリム同胞団の団員は50万人
     支持者も50万人。支部は2000存在していたから割と権威のあるポジションやで」


(´・ω・`)「あれ、ゾグ1世ってムスリムを締め付け・・・」


彡;(゚)(゚)「これが明白な理由という説明は出来ないんやが・・・
     当時のムスリム同胞団は今ほど過激な思想では無い上にムハンマド・アリー王朝と仲が良くてな」


彡(゚)(゚)「またゾグ1世自身もムスリムで何よりもゾグ1世の妹のサディジェ王女が
     ファールーク1世の又従兄のムハンマド・アブデル・モネイム王子(当時は王太子)と     
     婚約していたのもあるんやろうな。ちな婚約は後に破談したが」


彡()()「と言うのが理由やと思うんですけど正直よく分かりません わいに知識を分けてくれー」


彡(゚)(゚)「またゾグ1世は1948年に始まった第一次中東戦争でアラブ諸国に援助を行ったんやで」 

 

 

24: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:42:46 ID:fRt

彡(゚)(゚)「そして1949年にゾグ1世は王党派と愛国主義、反共産主義、反君主制を掲げていた
     バーリ・コンベタール(国民戦線)やイギリスの保守党議員のジュリアン・アメリーと接触して
     バルカン半島の現状の課題について話し合い、ある作戦を立ち上げたんや」


(´・ω・`)「どんな作戦なの?」


彡(゚)(゚)「ゾグ1世支持者が多数存在するマテ県にパラシュート部隊を降下させ、
     そこから最終的に市民闘争を促すという作戦や
     オペレーション・ヴァリアブル “価値有る作戦”とでも訳せばええんやろか
     これはイギリスのMI6、SISと当時新設されたばかりのアメリカのNATOと協同で行う事が決まったんや」


彡(-)(-)「元々英米は第二次大戦終結後まもなく亡命アルバニア人工作員を小規模ながら
     何回かに分けて潜入させたんやが成果があがらなかった。」


彡(゚)(゚)「やが英米間の政府間協議が格上げされNATOが新設された事で本格化したんや」


(´・ω・`)「へえ英米も良い事するじゃん」


彡(゚)(゚)「アルバニアはソ連圏では最小国かつ近くに英領植民地・軍事基地であるマルタ島があるから
     海上作戦に打ってつけ。更に南には英米の同盟国であるギリシャと国境が接していて
     そのギリシャは当時形式的ではあるんやが戦争状態。北と東はソ連圏から離れたユーゴスラヴィアに
     囲まれて孤立していて、まあ要は狙いやすいとこだったんや」


彡(゚)(゚)「失敗しても被害は最小限に食い止められるし成功すれば東欧諸国解放の足場になり得る
     非常に都合の良い目標だったんや」 

 

 

25: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:43:33 ID:fRt

彡(●)(●)「そもそもイギリスはエンヴェル・ホッジャ首班の共産主義政権の樹立に
      手を貸していたんやけど東西冷戦の時代になって自国に都合が悪くなったからこの作戦を立ち上げたやけどな」


(´・ω・`)「流石ジョンブルの五枚舌」


彡(゚)(゚)「ちな作戦が成功したらゾグ1世を国家元首に据えたらどうかと
     イギリス元労働大臣のアーネスト・ベヴィンは提言したんやが」


彡()()「イギリス軍諜報部中佐ビリー・マクレーンらが“亡命中の人間を一時的でもトップに据える事は出来ない”と
    突っ込んで流れたんだわ
    ちなマクレーンは前述のイギリスがしたアルバニアの共産主義政権樹立に奔走してた模様」


彡(゚)(゚)「それでマルタ島で二か月かけてゲリラ戦、通信技術、諜報収集術等を訓練した
     亡命アルバニア人30名、それもゲリラ戦の経験を持つベテラン兵が
     二手に分かれて10月初旬にアルバニアの海岸に到着したんや」


彡(-)(-)「こうして作戦は実行されたんやが、結論を先に言うとこの作戦は失敗する」


彡()()「何故か?それはイギリスのMM6のこの作戦の担当者のキム・フィルビーが
    ソ連に亡命アルバニア人がアルバニアの海岸に上陸する日時を報告していたんや」


彡()()「ソ連とアルバニアは当時は仲が良くてな。アルバニア軍にはソ連から派遣された
    1500人の顧問と4000人の技術者がいたんやわ」


彡(●)(●)「そう。最初からフィルビーはソ連のスパイだったんや筋金入りのな」


(´・ω・`)「そんなん入れるなや作戦に」


彡()()「海岸に上陸した兵達はアルバニア政府保安部隊によってほとんど射殺され
    隣国ギリシャの海岸まで命からがら逃げて生き残れたのは数名のみだったんやわ」


彡(-)(-)「この作戦は何年も継続されたんやが、結局成功せず犠牲者は増える一方
     最終的に犠牲者の数は100人から200人前後と言われているわ」


(´・ω・`)「フィルビー人面獣心也」 

 

 

26: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:45:28 ID:fRt

彡(-)(-)「その後1952年に勃発したエジプト革命でゾグ1世達はエジプトから出国する事を余儀なくされたで」


彡(゚)(゚)「次にニューヨークに向かってから1955年にフランスに移動し、亡くなるまでフランスに滞在したンゴ」


(´・ω・`)「ゾグ1世はこの時期政治活動はしなかったの?」


彡(-)(-)「・・・目立った行動はしていなかったみたいや」


彡(゚)(゚)「それでゾグ1世は自分でも皮肉るぐらいのチェーンスモーカーで一日200本煙草を吸っていたんやが」


彡(-)(-)「長年の喫煙のせいか胃がんにかかって、1961年4月9日に崩御。
     享年65歳 遺体はフランスのティエの墓地に埋葬されたで」


彡(゚)(゚)「同年にゾグ1世の息子、1957年に法廷推定相続人となっていたレカ王太子が
     4月15日に国王即位を宣言。レカ1世と呼称されるようになる 以降レカ1世陛下と呼称するで」


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(´・ω・`)「なんで?旧君主国の君主でもないのに。正確に表記するのなら“レカ王太子”のままじゃないの?」


彡(-)(-)「これには理由があるんやが後述するで」


彡(゚)(゚)「それでレカ1世陛下は前述したエジプトのヴィクトリアカレッジ、英国人小学校
     スイスのエイグロン・カレッジ
     パリ大学で経済学を修めた後にイギリスのサンドハースト王立王立士官学校を卒業
     イギリス陸軍少尉に任官なさったで。」


彡(゚)(゚)「即位の翌年の1962年にスペインのフランシスコ・フランコの招待でマドリードに移住なさって
     石炭、米、煙草、銃等を扱う貿易商として御働きになられたんや」 

 

 

27: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:46:24 ID:fRt

彡(゚)(゚)「またこの時期スペイン政府はサウジアラビア軍に2000丁の自動小銃を卸していたいたんやが
     それはレカ陛下が両国の間に立って交渉・助言なさった成果なんやで」


彡(゚)(゚)「フランコの要望の元に陛下は亡命アルバニア人のコミュニティを作りだして尽力なさったんや」


彡(゚)(゚)「具体的に言うと、1967年の夏から冬にかけてアメリカを公式訪問。アメリカの亡命アルバニアコミュニティと
     相互の関係を築き上げたんや」


彡(゚)(゚)「また反王党派政党バーリ・コンベタール、パン・アルバニア連盟のヴァトラ
     王党派の合法性運動(PLL)の指導者とも邂逅」


彡(゚)(゚)「更にカリフォルニア州知事にして後の大統領ロナルド・レーガンとも接触し
     大統領を通じてアメリカ議会の外交委員会のアルバニアに関する決議を
     承認出来るようにしたで」


彡(゚)(゚)「またマドリードにて亡命アルバニアの政治団体、非政治団体間の初めて会議を実施
     会議は軍事的な外交策のみが共産主義政権及び
     コソヴォとギリシャに占領されているチャメリアの領土問題を終わらせられると結論付けたで」


彡(゚)(゚)「その結論を元に陛下は亡命アルバニア人で構成されたコミュニティ、義勇軍を作りだしたんや
     この義勇軍の目的はアルバニアがした決議である国際連合における中華人民共和国の合法的権利の回復
     いわゆるアルバニア決議で築き上げられたアルバニアと中国との密接な関係の破壊と
     ユーゴスラビアがコソボのアルバニア人にした不当な扱いの打破を目的としていたんや」


彡(゚)(゚)「そして1975年にオーストラリア出身のデザイナー、スーザン・カレン=ワードとフランスのビアリッツにてご結婚」


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彡(^)(^)「その際太王妃ゲーラルディネ陛下は“貴方が息子(レカ1世陛下)をより教育して下さった事で
     世界中が本当に感謝しています”と感謝の意を表されてたんや」 

 

 

28: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:47:46 ID:fRt

彡;(゚)(゚)「レカ1世陛下らは再びマドリードに戻られ王政復古したスペインで
      1979年まで家族ともども暮しておられたんやが・・」


(´・ω・`)「何かあったの?」


彡()()「バズーカ等の兵器を不法所持していたので国からそれを問いただされて最終的に追放されたんや」


(;゙゚'ω゚')「駄目じゃん!全然駄目じゃんそれ!」


彡()()「擁護すると前述した亡命アルバニア人の義勇軍の為に兵器等を工面していたのが理由やで
    それに陛下はゲリラ戦のエキスパートとしても有名だったから戦術面でも色々助言をなさったそうだわ。


彡(゚)(゚)「まあとにかくスペインから追放された陛下はまずガボンに移動なさったんやが
     アルバニアの共産党の反対を受け入れたガボン政府によって即刻移動を余儀なくされたンゴ」


彡(゚)(゚)「陛下が乗っていらした航空機のすぐ近くまでガボンの兵が来たんやが
     陛下はバズーカ片手に航空機のドアを開けて兵に対して威嚇したと言うで」


彡(゚)(゚)「次に今では存在しない国、ザンビアとジンバブエ地域の総称にして白人統治下のローデシア共和国に移動」


彡(゚)(゚)「だが当時のローデシアは動乱中でな。またすぐに移動なさったんや。
     ちな動乱の結果翌年ローデシアは解体されてジンバブエ共和国が成立する
     このころはムガベもまともやったんやけどなぁ」


彡(゚)(゚)「次に向かったのが南アフリカ。そこで居を構えたで
     ただエジプトのサダト大統領がアルバニアの共産主義政権を打破する為に
     連携をしないかとの要望に応えてエジプトに移動」


(´・ω・`)「なんかもう移動ばっかだね」


彡(-)(-)「やが1981年にサダトが暗殺された事で計画が霧消。止む無く南アフリカにとんぼ返りされたで」 

 

 

29: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:49:02 ID:fRt

彡(゚)(゚)「ちな同年に亡命アルバニア人で構成されていたアルバニア自由軍に横流しした兵器が
     コソヴォ暴動にて使われていたとか」


彡(゚)(゚)「それで陛下は滞在地の南アフリカでも貿易商として働き、その翌年に1982年に・・・」


彡(^)(^)「後にゾグ家当主となられるレカ王太子殿下がヨハネスブルグにて生誕なさったんや!」


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彡(゚)(゚)「ちな南アフリカ政府は殿下がアルバニア領土出身とする為に
     サントン病院を一時的にアルバニア領土と宣言したのでレカ王太子殿下はアルバニア出身となるで」


(´・ω・`)「こんなの反則だよな」


彡(゚)(゚)「陛下はレカ王太子殿下の養育に奔走する一方、1985年にエンヴェル・ホッジャが死去した際に陛下は
     “今日の国の安寧を保持する為により一層自由な国作りをしなければならない”と陛下はおっしゃり
     翌年のアメリカでのバルカン半島諸国の代表者を招いた理事会の準備と
     後のアルバニア大統領のサリ・ベリシャと手紙で計24回やりとりされて」


彡(゚)(゚)「1986年9月に陛下がアメリカで開かれたソ連に追随するバルカン半島各国の姿勢に
     反対するバルカン半島各国の代表が集まった理事会の名簿には旧オーストリア=ハンガリー二重帝国大公にして
     EU二代目会長のオットー大公殿下やアメリカ共和党上院議員ジェシー・ヘルムズ等の
     そうそうたるメンバーが名を連ねていたというで
     オットー大公殿下についてはオーストリアの項目で説明するンゴ」


彡(゚)(゚)「更にコソヴォにおける紛争の為数百万ドルを救助支援に送られたで」


(´・ω・`)「数百万ドルぽんっとくれたぜ」


彡(゚)(゚)「それでアルバニア本国に話を移すと、アルバニアは1992年の総選挙の結果共産党が惨敗。
     戦後初の非共産主義政権が誕生したんや 大統領は上に書いたサリ・ベリシャやで」 

 

 

30: 名無しさん@おーぷん 2017/04/06(木)23:50:04 ID:fRt

彡(゚)(゚)「翌年の1993年11月20日に陛下は亡命後初めてアルバニアに訪問されたんや」


彡(-)(-)「が、24時間で退去を余儀なくされる。理由は陛下が所持なさっていたパスポートが
     旧アルバニア王国のもので既に失効していたからや」


(´・ω・`)「ぐうの音も出ねえわ」


彡(゚)(゚)「次に訪問なさったのは1997年4月12日 
     ティラナの空港には2000人(一万人とも言われている)のサポーター、支持者が駆け付けたで
     支持者達は“平和と友愛の連帯を!”と叫びあっていたンゴ」


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(支持者達とレカ1世陛下)


(´・ω・`)「なんでこのタイミングで訪問したの?」


彡(-)(-)「当時のアルバニアは国家ぐるみの武器密輸とねずみ講で経済が破綻してな
     町には数十万人規模の失業者であふれかえり暴動に発展したんや」


彡(゚)(゚)「その結果治安が急激に悪化し、当時の大統領サリ・ベリシャは3月に非常事態宣言を発令し
     世界各国による救援と救援活動が展開される」


(´・ω・`)「つまりレカ1世は国家の非常事態に駆け付けたと?」


彡(゚)(゚)「それもあるんやがこの時アルバニアに存在していた10の政党がレカ国王陛下を
     正式に招致する宣言に署名し、かつベリシャ大統領が王政復古を問う国民投票の実施を
     確約したのが一番大きな理由やで」


(;゙゚'ω゚')「えっ何この超展開」