二月革命1848年フランス革命Ⅱ臨時政府
第二共和政の動揺
1848年4月選挙で社会主義派が後退、ブルジョワ共和派が国立作業場の併催に踏み切ると反発した労働者が六月蜂起を起こした。その鎮圧に活躍した軍人カヴェニャックが実権を握る。11月に公布された共和国憲法に基づいて実施された大統領選挙でルイ=ナポレオンが当選、次第に権力を集中させ、第二帝政への道を開いた。
二月革命での内部矛盾
臨時政府のなかの急進共和派、社会主義派は、労働者の救済を図るために国立作業場を設置した。これは工場ではなく、土木作業場といったもので、失業対策のために設けられたものであった。しかし、作業場に収容された人には、実際の仕事がなくとも国費で給与が支払われるていた為、厖大な支出が続き、次第に財政を圧迫していった。あわせて当時、全ヨーロッパでのジャガイモ飢饉の影響による不況で、国家財政は危機に瀕することとなった。臨時政府部内のブルジョワ共和派は国立作業場の閉鎖が大勢を占め、4月の選挙によって社会主義派が後退したことによって、5月に成立した執行委員会(政府)はその閉鎖が決定された。
六月蜂起 政府が国立作業場を閉鎖したことに対して労働者と社会主義派は強く反発した。労働者は六月蜂起を起こしパリ中にバリケードを築いた。議会は軍人のカヴェニャックに全権を付与、彼は戒厳令を布き、労働者のバリケードを砲撃して蜂起を鎮圧、労働者・社会主義者を多数殺害した。ルイ=ブランはイギリスに亡命し、実権は鎮圧を指揮した軍人カヴェニャックに移った。
共和国憲法と大統領選挙
1848年1年間のフランスの政権交代を戯画化した絵。右からルイ=フィリップ → ラマルティーヌ → カヴェニャック → ルイ=ナポレオン。いずれもルイ=ナポレオンの登場の露払いに過ぎなかったというわけである。
憲法制定国民議会は11月4日に第二共和政憲法を採択した。人民主権・三権分立・一院制・大統領制を採用し、男子普通選挙を定めたていた。同年12月にこの憲法に基づき、最初の大統領選挙が実施されると、カヴェニャック、ララルティーヌらと並んで、亡命先のイギリスから帰国したナポレオンの甥、ルイ=ナポレオンが立候補した。多くはカヴェニャックの圧勝を予想していたが、その結果はルイ=ナポレオンが553万票(74.2%)で圧勝、カヴェニャックは145万票、ルドリュ=ロランは37万票、ラマルティーヌは3万票にも届かなかった。
大統領となったルイ=ナポレオンは、当初は共和政に忠実な姿勢を示したが、実際には王党派を多数復権させ、共和主義者の排除を進めた。また「六月蜂起」(六月暴動)の恐怖心を煽り、フランスの栄光の再現を強調して保守化した農民層の支持を取り込んで、次第に強大な権限をふるうようになった。王党派と反共和主義者はルイ=ナポレオンの与党として秩序党を結成、1849年の立法議会選挙では450議席(750議席中)を占めて第一党となり、ルイ=ナポレオンの1851年のクーデタへの地ならしを終えた。