貴賤 3 | 法瀧庵-祟りはないと知ってほしい霊能者のブログ-

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霊能者であり、密教の修験者である沖田法瀧(おきたほうりゅう)のブログです。
お墓のお花はどちらに向けて備えますか? すべてが生きてる者の自己満足。それを知ってほしい。
「祟り」という言葉にどれほどの人が騙されてきたのか…そんな涙はもう見たくはないのです。

こんにちは^^

続きです。

 

今日は少しだけ派生したお話になります。

自分をおとしめることは、一見すると謙虚さにもつながるかもしれません。

 

謙虚さは素晴らしいことだと思いますが、いきすぎたり、道を間違えると自己否定になり、単なる嫌味でしかなくなります。

 

とある国家資格をお取りになられた女性がおりました。

 彼女は本当にお勉強が苦手で、普段の生きる知恵のようなものは素晴らしいのですが、座学となると途端に成績が悪くなるタイプでした。

 

彼女はお勉強という意味では、自分に強烈なコンプレックスをお持ちでした。

「あの資格とおったの?! すごいすごいおめでとう!!」

多くの人にお祝いをされても、彼女は合格は嬉しいけれど、、、、という態度だったのです。

何が不満なのかと言うと

「でも、通った言うても最下位やから」

 

コンプレックスの言わせた悲しい言葉ですね。

 

けれど、これは言ってはいけない言葉ではないかと思うのです。

 だって、不合格だった人もいるのですから。

最下位でも合格は合格です。

 

世間は狭いですから、どこかで同じ試験に落ちた方が聞いておられることもあるかもしれません。

 

実際、まったく別のお話ですが、ある高校生の女の子が

「あんな大学は受けへんよ、目つむってても受かるわ」

と言った、目をつむってても受かる大学を第一志望にしていたのが、

その子の親友だった、というようなお話もありました。

 

親友の子は、その女の子がいくら聞いても志望校を教えてくれず、

別の友人伝いに真相を聞いて、女の子は自分が発してしまった言葉に大きな後悔をなさったそうです。

 

後日謝りに行きましたが、吐いた言葉は飲み込めません。

 

あまりに謙虚さが度を過ぎると、単なる嫌味になってしまったり、不用意に誰かを傷つけることになります。

 

謙虚さと自己否定は別物であると意識できると、

本当の意味で人に優しくできるようになるかもしれないなと感じております。

 

自分はまだまだです。勉強させてもらう身です。

いつもありがとうございます。感謝しています。

「今日も生かしていただいている」

これが謙虚さではないかと思います。

 

そして、できることはひとつずつ素直に肯定していくことが重要ではないかと思うのです。

「すごいね、あの資格通ったん?おめでとう!!」

こう言われたときに

「そうやねん、不眠不休で一生分以上に勉強してやっと受かれてん!

 最下位やったけど、合格やから頑張ったと思う!」

 

このほうが、人として可愛いように思うのです。

 

「合格でも、最下位やから」

と言ってしまうと、落ちた人は最下位以下だったのですから。

これって、ある種の嫌味ですよね。

 

つい口をついて出ていることが、自分を不用意におとしめて、結果的に誰かを傷つけていないか、少しだけ思案してみても良いかもしれません^^