貴賤  2 | 法瀧庵-祟りはないと知ってほしい霊能者のブログ-

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霊能者であり、密教の修験者である沖田法瀧(おきたほうりゅう)のブログです。
お墓のお花はどちらに向けて備えますか? すべてが生きてる者の自己満足。それを知ってほしい。
「祟り」という言葉にどれほどの人が騙されてきたのか…そんな涙はもう見たくはないのです。

こんにちは。
昨日のつづきです。

自分をおとしめる行為や思考が、この世に存在する貴賤である、と申し上げました。

例えば、お姑さんにいびりまくられて、それでも我慢しなくてはいけないと思い込み、
どうしてみんなはウニやいくらを食べてるのに自分のお皿にはカッパ巻きしか入ってないのかと思いつつも「受け入れて」いたり。

お友達との関係で、いじられ役になって笑われものになって「イヤだな」と思っていても「受け入れて」いたり。

意味のない暴力を受け入れて、精神的にコントロールされて何も悪くないのにすべて自分が悪いと思い込んでいたり。

世の中には、いろいろな我慢があります。
避けられない、するべき我慢を乗り越えた方には幸せな未来がありますが、
ご自身が幸せでないと思っておられる方の多くが、この【しなくて良い我慢】をなさっておられます。

これもおまた、以前にも書きましたが、お釈迦さまでさえ苦行には意味がないと途中でやめておられます。
しなくていい我慢には、意味がありません。

では、しなくていい我慢と、するべき我慢は、どこに差があるのか。
どう見分ければいいのか。

【自分をおとしめている我慢】
これが「しなくて良い我慢」です。

するべき我慢は、得るものがある我慢です。

たとえばスポーツ選手が、とってもハードな練習をこなしておられます。
けれどそれは、自分をおとしめてなさっている【我慢】ではありません。
筋力がついたり、何かしらの技術を得たりといった【その先】がございます。
いわば、ご自身を【高める我慢】。
これがするべき我慢。

けれど、自分をおとしめる我慢には、【その先】がないのです。

続きはまた次回に書かせてください。
いつもありがとうございます^^