禅タロット小アルカナ考察:水の8・LETTING GO | 穂積の覚書

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水の8・LETTING GO(手放し)です。



穂積の覚書-気まぐれ屋本舗-56

これまた綺麗な絵で。

今、まさに蓮の葉から水滴が一つ落ちたところです。波紋が未だ美しい円を描いています。

蓮の葉は完全さ、スピリチュアルな啓示の象徴です。



この水滴は「さあ落ちるぞ!」と思って自分からダイブしたわけではなく、蓮の葉の傾きと自重と重力で落ちています。

落ちたくない、としがみつくでもなく、ただ周囲の変化に抗わないだけ。

と書くと、「状況が変化する」ところの火の8を思い出します。このカードも8番。


火の8番は「周囲の変化」が主なものだったけれど、水の8番は「自分の変化」な感じがします。でも自分だけの変化じゃなくて、周囲の変化も多分に影響してる。


小さい頃に宝物だった綺麗な道ばたの石が普通の石になるように。

夢中で見ていた特撮物やアニメが意外にちゃちく見えたり。

大事にしていた大好きな本を、あ、もういいか、って手放す決意が出来たり。

前は理解できていた子どもの脈絡のない話し方が、今はちょっと理解できなくなったり。


一般に「大人になった」とか「成長した」とかの言葉で括れるそれがよく似ている。

大人になったらピーマン好きになったとかね。

私はタケノコがものすごく美味しく思えだした。玉ねぎも。玉ねぎ辛くて苦手だったのに、今はすごく甘く感じる。

そういう風に、ふっと、自然に、次のステージとか、一つ階段を上る感じ。

前はこうだった! ということにこだわると、なかなかそこに辿り着けない。

小さい頃に着ていたお気に入りの服を、今も着たがるみたいな。それサイズ合わないよね、みたいな。

趣味がどうとかではなく、サイズが合わないという決定的な違和感がよく似ている。


そんで抗わずに落ちた先では、音もなく静に調和する。

もう一粒の、「水滴です!」って主張する水滴ではなく、水という大きな世界を構成する一部になる。

無我は仏教用語だから、結構出てくるやね。



このカード、私はあまり引いたことがない。

だから多分まだ蓮の葉の上で、「私が私が」って言ってるんだろうなと思う。

次の世界に行くというのは勇気が要る。だから、行きたくない、行かなくていい、ここにいたい、と思うことはある。普通にある。

でも、時間というのは容赦なく過ぎて、いろんな物のサイズを合わなくしていく。

気がついたときが、手放し時だ。