行き着く先は「納得と説明」…勘違いすることなく | ドリーム・トレーナーの挑戦日記
過去の神社の写真をCheckしていたら
大神神社の摂末社の檜原神社
三つ鳥居でも有名で
後ろにはご神体として三輪山がある


ドリーム・トレーナーの挑戦日記

すごく気になっていた
色んな本で勉強するなかでも
神々の指紋を読みながら、そのときの感覚
どこから来てたのか?
そう考えるだけでも、なんか非日常を感じることもでき

そして
最も気になったのが
崇神天皇の址地
別の場所に古墳はあるけれど
こちらの方がすごく気になり

ドリーム・トレーナーの挑戦日記

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人もほとんどいない
タクシーの運転手が連れて行ってくれた
駅のすぐ近く

その頃の神話
古事記と日本書紀でしか図れないものかもしれないけれど
それはそれで
たとえ、それが誰かの意図として書かれたもので
あったとしても

自分が何かを感じるのであれば
そっちを大切に
と思い、なぜかフッとアップしたくなった


感覚

で、話しをしたり、伝えたりしていることも多いし
そう見えるように話しをすること多い
それは、多分原稿もみないし、別に順番どおりに用意したものを
話す訳でもないし

それは、早朝セミナーでも他のセミナーでもほとんど変わらない
ただ、テーマは絞って話しはする
そのテーマであったり
問いかけた返答によって変えたりもするし
返って来なかった時にもまたまた変わるし

でも
それらは、すべて自分が学んできたこと
経験の中で、体験の中で、失敗の中で
それに、論理的なものを学び肉付けをしているだけで

そこへ、相手の今の状況を結びつけたりするから
内容が全く同じセミナーというものが成り立たない
テーマも、話す内容もさほど変わらないこともあるんだけど
まったく違う内容へとなっていく

どこへ足を運ぶか?
どこへ興味を持つか?

それは、過去の経験なのかもしれないし
その過去の価値観なのかもしれないけれど
最近は、それ以上のものを感じるときも多い

自分が
何を基に神社参拝を始めたか?
それさえ、理由をつけることは出来るけれど
何かに突き動かされているような気がしてならない

続けていること
途中で止めること

基本的に、途中でやめるってクセはない
何か理由があるんだと思う
それは、損得ではない
何かが

損得であれば続けていることの方が…損すること多い

関わりが深くなる人
浅いままで終わる人
深くなったかのように勘違いして、終わる人
さまざま

ただ、自分自身は
長くつき合うのも得意
短くつき合うのも得意

相手に合わせていったりしていること多いし
相手が求めるものが変わるだけで

それが
人とのつながりなのか?
お金とのつながりなのか?
その違い

お金は仕組みで生まれるものなのかもしれない
でも、それは限界があることも
やっぱり人とのつながりで生まれるお金
それが一番いいような、そんな気もする

縁が円になり、また人の和になる

そんな流れが

仁誠塾もそうありたいし、そうなるべきだろうし
人をたくさん集めることが目的でもなく
ただ、1人の人の周りの人が来ることが1つの目的で

それぞれの問題や悩みを共有し
その考え方を共有する
すると、それを理解し合おうとする手間が省けるというか
なかなか理解し合えないで
妥協し合っているようにも見えたりするから

そこを何とかしていきたいと

誰もが
問題も悩みも持ちたくない
出来るものなら避けたいものだと思っているし

お金
ラクして稼げたら?と思っている人も多いだろうし
でも、お金って苦労して手にしたお金と
あれっ?
という感じで手にしたお金

なぜか重さが違う

その重さ
ソコへは、自分が考えたり、苦しんだりしたもの
相手が苦しんだ先に手を差し伸ばしたもの
それが一致したときに
重いお金になる
そんな気もする

であれば
そのお金の行き先をしっかりと、明確にして
その行き先に行着くように
手に入ったら、また出していけばいい

そうやって循環するのは
お金だけではなく
人も同じように

自然の流れで

今日の取締役会
案外長かった、とは言っても2時間ほど

内容は…いつもと同じように濃い内容と
でも、ほとんどは
行き着く先は

納得と説明

ここへ行き着く

出来たと思っていたら
出来ていると
説明していると
伝えていると

思った瞬間に伝わらないものとなる

それが説明

小さなことを
しっかりと相手が求めているものを
求めているタイミングで
すっと差し出してあげること

それが説明で
相手が納得できるもの

その数が売上であり
自分が手にする収入

結局
人とのつながりかたで
入ってくるお金が変わるだけ

必要以上でもなく
必要な文だけ
今の力の分だけ
お金は入ってきているんだと

だったら?

どうする?

ということ