宮崎駿さんの引退宣言に想う…… | 意識デザイン
基本的にニュースについてブログを書くことはしないし、まして人さまのことをどうこう言うことはあんまりしたくないと思っている。
それに、たしか6日だっけ、まだご本人の記者会見が控えている。

ぼくなんかはここでエラソーなことを書けるような人間じゃあないんだけど、でもちょっとは感じたことをシェアしたいなと思ってあえて書く。



宮崎駿さんの引退宣言──。

『風立ちぬ』を観た人だったら、たぶん「ああ、やっぱり」と思ったんじゃないかな。

あきらかに、かつて一世を風靡した作風とは違う、かといって新しい何かにチャレンジしようという意気込みを感じさせるでもない……。
未知に対する憧れや好奇心でもなく、未来に対する希望でもなく……。
かと言って、追憶と言えるほどの美化も総括もない。
過ぎたことだけれど、かと言って、人生じたいはまだ残っている訳だし……。

──『風立ちぬ』は、そんな作品だった。



作家は、主人公を自分の分身だとみなされることを嫌う。

でもやっぱりあの作品の主人公は、多分に宮崎さんの自画像なんじゃないかと思う。

宮崎さんは72歳だっていうから、たぶん戦時中のあの頃、ちょうど幼少期を過ごされたんじゃないかな。
ちょうど感受性を育んであろう時期──。

物質的にもあるいは体制的にも、いろいろと思うにまかせない環境の中、それでも自分が心惹かれるものに寝食を忘れ、そして心血を注いで、世界中のみんなをあっと言わせる作品を創りあげるまでになった。

でもいざ「その作品が世界を良くすることに繋がったのか」だなんて問い詰められたら、胸を張ってYESとは言えない。

あるときはみんなが右と言う、またあるときは左と。
けっきょく何がよくて何がいけないのか、何が正しくて何が間違っているのか、そんなことは誰にも解らないし、かりにいま解ったつもりでも、未来永劫そうだともかぎらない。

自分にできるのは、いま情熱を傾けられるものに対して全力で打ち込むことだけだ。
むしろ、声を荒げて何かの主義主張を唱えるということについては慎重であろう。



そして、その作品を創りあげるまでの過程において、プライベートでは切ない思いもいっぱいした。
ささやかな喜びもあり、ほろ苦い挫折もあり、そして悲しい別離も……。

自分は、作品を創りあげた作者として名を残すことになるだろうけれど、その陰にはそれを支えたたくさんの協力者たちがいた。

あるいはまた、その作品とともに海の藻屑と消えて行った人たちも……。

そんな宮崎さんのアニメに対する思いを、ひとつの作品として遺した──ぼくには、そのように思える。



宮崎さんは『風立ちぬ』完成後のインタビューで、「世界がギシギシ音を立てて変化している時代に、いままでとおなじファンタジーを創りつづけるのはもはやムリがあると思った」と語ったそうだ。



ちなみに、ぼくは「スピリチュアル」と呼ばる世界で仕事をしているけれど、やっぱり同じように感じる。

たとえばこの世界では、昨年までは「2012年12月に何かとても大きなことが起こる」みたいなことを言う人たちがたくさんいて、いまにして思えばその‘特需’みたいな部分で踊っている人が少なくなかったように思う。

何かがあった人もいれば、とくに何も感じなかった人もいるだろう。
いずれにせよ、いまはもう2012年12月じゃあない。

他の人のことはあまりくわしく知らないけれど、たとえば はづき虹映さんなども今年に入って大きく仕事のやり方を変えたというと聴く。
たぶん、この世界で仕事をしている人の中には、そういう人が少なくないんじゃないかな。

いま、ぼくも自分的にはけっこう大きな方向転換に舵を切っているところ。
まだ、宮崎さんのように引退する訳にはいかないから(笑)。

もちろんまだ宇宙もこの世も、目に見えるほどはっきりと「こちらだ」というような流れを示している訳でなない。
ただ、あきらかにこれまでとは潮目が変わっている。

これまでと同じような舵の切り方では、自分の感性からズレていくことだけは判る。

ぼくも今月あたりから、一気にとはいかないけれど、徐々にこれまで仕込んできたあたらしい路線を打ち出していく予定。



ぼくは宮崎さんの作品は割とたくさん観てはいるけれど、全面的に好きなわけではなかった。

その理由のひとつは、彼が描いているのはいつも母と子と他者の物語であり、たいていの場合、お父さんはいないか、ドジ踏むか、せいぜいのところいても頼りにならない人としてしか描かれていなかったから。

このことだけで、書き出すと長い話になっちゃうんだけどね。



けっきょくのところ、『風立ちぬ』でも主人公は父になることなくストーリーを終える。

けれどもこの作品では、菜穂子を庇護するお父さんとか、上司である黒川さんとか、あるいは目に見えないメンターであるカプローニとか……、さまざまな父性の可能性を示唆している。
このあたりのテーマに反応する人は多くはないのかもしれないけれど、これって宮崎作品のなかでは画期的なことだ。

父であることが困難なこの世の中にあって、嫌われたり、やがて乗り越えて行かれたりすることを承知のうえで、でもやっぱり誰かがその役をやらなければならない。

お母さんは
ベタベタ甘えさせて、無条件の愛で、だーーい好きっ、、、て、それでいい。

でも、それだけじゃあダメだ。
ときには、‘No’ということ。
右でも左でもいいんだけど、でもそのうちのどちらかひとつを選択するということ。
「私」と「あなた」だけではない人たちのことを考えるということ。

──そういうことっていうのは、生物学的に自然と育まれるものではないから、人間としてそれをするだけの力を身につけるように教育しないといけない。

そして、それをやるのは「父」の役割だ。
(ここでいう「父」は、かならずしも生物学的な、あるいは家族構成上の父とイコールとはかぎらないけれど)



ぼくがいまの日本をとても歯がゆく思う、その元凶のひとつは、全共闘世代の人たちが父の役割をまっとうできなかった点にあると思っている。

宮崎さんは、ある意味でその代表だ。

でも、最後の作品で、彼は彼なりのオトシマエをつけてくれた──、ぼくはそのようにみた。


まぁ、ぼく自身がよき父かというと、はなはだ心許ないけれど。。。f(^^);【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】





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