【0-k】③「自分の自己愛の深化」による《神の自己愛》への「参与」~スピノザの自己愛~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

マハトマ・ガンディ
“人はなぜ心に恐れを抱くのか。
それは、
自分の魂の力を、真理の力信じていないから
しかし、信じる心
理性の力で得られるものではない
それは、自分自身のためではなく、
他人のために働き続けること
ゆっくりと自分のものなる
。”


―――――――――――――――――――――――――――

〈【前のページ(0-j)】からの続き〉

※太字・下線・色彩・フォント拡大などでの強調は引用者。
〔〕は引用者
【】は引用原文でのルビ表記。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


‟  〈Ⅲ――勇気と自己肯定――スピノザ〉


 コスモス的諦念の勇気変わって、
コスモス的救済の信仰が登場した
とき、
ストア主義舞台から消えていった
しかし、
救済の理念に支えられてきた中世的体制
崩壊しはじめたとき、
ストア主義再び前面に出てきた

ストア主義は、
またもや知的エリートにとって意味をもってきたが、
この知的エリートは、
救済の道を放棄したにもかかわらず、
それをストア的諦念の道でもって置換することは
しなかった

近代初頭の西欧における古代哲学復興
単なる復興ではなくて、
その変形をも意味するもの
であったが、
それはキリスト教の影響強かったからである。
このことは、
プラトン主義の再興についても、
懐疑主義やストア主義などの再興についても
妥当することである。
また芸術・文学・国家論・宗教哲学などについても
妥当することである。
これらすべての場合において、
古代末期の人生観における否定性は、
キリスト教的な肯定的態度によって
とって代わられた

このキリスト教的肯定性は、
創造受肉の理念において
表白されたもの
であり、
そして
たといこれらの理念が無視され あるいは 否定されたとしても、
けっしてなくならなかったのである。
ルネサンス・ヒューマニズムの精神的内実は、
古代ヒューマニズムのそれが異教的であったことと違って、
キリスト教的なものであった。
近代ヒューマニズム
キリスト教批判したにもかかわらず
キリスト教的なのである。
それはちょうど古代ヒューマニズム
異教批判したにもかかわらず
異教的であるようなもの
である。
古代ヒューマニズム
ルネサンス・ヒューマニズム
決定的相違は、
存在が本質的には善かどうか
という問いに対する答えにおいて
明らか
である。
創造の教理において古典的に表明されている
キリスト教的教説は、
存在そのものはである(esse qua esse bonum est)
ということであるが、
他方、
ギリシア哲学における「反抗的質量
(widerstebende Materie)の教説は、
存在とは
それ

創造的形相〔イデア・理想・魂〕
反抗的質量
〔物質・素材・肉体〕との
あずかっている限り、
必然的になもの
である
という異教的な感覚を表現している。
この存在論的基礎における対立は、
決定的な結果をもたらすのである。
古代末期における
形而上的宗教的二

いろいろな形をとっているが、
それら
禁欲主義的理想つまり物質否定
結びつけられていた

他方、
ルネサンスにおいては、
その
〔古代における〕禁欲的態度
物質創造的造形するという態度によって
置換されている
のである。
第二に、
古代においては、
悲劇的実存理解
生や思想を
支配していた
のに対し、
ルネサンスとともに
将来に向かって、

また将来における新しいものの
創造
に向かってうごく動き
が起こった。
希望
悲劇的人生観代わって登場
し、
進歩の信仰
永遠回帰の諦念代わって登場してきた
のである。
第三に、
その存在論的基礎の根本的相違から、
古代ヒューマニズムにおける個人の地位と
近代におけるそれとのあいだに
評価の違いが出てきた。
古代
個人そのものに何の価値も帰さない
むしろ個人は
ある普遍的なもの
たとえば
徳のようなもの代表する限り評価されるのである。
ところが、
ルネサンスにおいて
個人としての個人のなかに、
他とくらべられない、
他と代えられない、
無限に価値をもつところの、
一回限りの宇宙
の表現をみた
のである。

 こういった相違が
あきらかに勇気の解釈に
重大な差
もたらさないではおかなかった。
ここで私〔パウル・ティリッヒ〕のいわんとすることは、
諦念と救済との対立のことではない。
というのは
近代ヒューマニズムも
ヒューマニズムであって、
それは救済の思想拒否する
からである。
しかし、
近代のヒューマニズムは、
諦念の思想をも拒否する
のでる。
それは、諦念の代わりに、
一種の独特自己肯定を置く
のである。
この自己肯定
物質的・歴史的・個人的実存を
そのなかに含むこと
において

ストア主義者たちそれを越えている
それにもかかわらず
近代ヒューマニズム古代ストア主義とは、
幾多の点で一致しており、

したがって
それはストア主義〉と呼ばれうるものなのである。
その主たる代表者
スピノザである。
彼は他のいかなる哲学者にもまさって、
勇気の存在論を展開した。
彼はその存在論的な主著を
『エティカ』(倫理学)と名づけた
が、
それによって
――この標題がその目的を示しているように――
存在への勇気〔生きる勇気〕をも包含する
人間の倫理的実存
の存在論的根拠を
示そうとしている
のである。
しかし、
スピノザにとって――ストア主義者の場合と同じく――
存在への勇気〔生きる勇気〕とは、
他のものと並ぶ任意の一つではないのであって、
それは
存在にあずかるすべてのものにとっての
本質的な行為であり、
つまり
自己肯定を示すのである。
自己肯定の教説は、
スピノザ哲学にとって中心的意義をもつもの
であり、
それは次のような表現において表白されている。
「いかなるものでも
自己の存在に固執しようとする努力は、
もの本来生きた本質にほかならない」

(『エティカ』第三部定理七。
邦訳は、中央公論社「世界の名著」25スピノザ『エティカ』工藤喜作・斎藤博訳による)。
この「努力」に当たるラテン語は“conatus”であって、
それは
ある物を求める努力である。
このような努力は、
ある物における偶然的側面でもなければ、
またその物の存在に属する諸要素のなかの一つでもなくて、
その存在の「現実的本質」(essentia actualis)なのである。
すなわち
その努力(conatus)
ある物をして
真にその物たらしめる
のであって、
それ除去されると、
そのもの
必然的に消滅するようなもの

(『エティカ』第二部定義第二)なのである。
自己保存や自己肯定への努力が、
ある物をしてその物たらしめる

スピノザは、
ある物の本質をなすところのこの努力を、
その物のもつ力と名づけ、
そして精神について こういっている。
精神は、
「それ自身の
活動力(ipsuisi agendi potentiam)を肯定するか、
あるいは基礎づける(affirmat sive point)」
(conatusの証明)。
したがって
真の本質あるいは存在力(Seinsmächtigkeit)は、
自己肯定同一化されている
のである。
同一化は さらに次のことにまでいたる。
すなわち
存在力は と同一化され、
したがって
それは本質的本性と同一化される
のである。
とは もっぱら
自らの本質的本性に従って行為する力
なのである。
そして徳の程度は、
人間が彼自身の本質肯定する程度に応じて
きまる
のである。
どのような徳も、
このこと(すなわち自分自身を保持しようとする努力)より
優先して考えることはできない

(『エティカ』第四部定理二二)。
自己肯定とは いわば徳そのもののことである。
しかし
自己肯定とは、
自己の本質的本性肯定
であり

そして自己の本質的本性の認識は、
理性
つまり正しい観念を形づくる精神の力によって
媒介される
のである。
したがって徳行とは、
理性の導き従って行為すること以外の
何ものでもなく

それはすなわち、
彼の本質的存在もしくは彼の真の本性
肯定すること
である
(『エティカ』第四部定義二四)。

 以上を基礎として
勇気自己肯定との関係が明らかにされる

スピノザは
その関係において
二つの概念つまりfortitudoanimositasを用いる
(第三部定理五九)。
fortitudo”とは――スコラ的用法と同様――
精神の強さ
すなわち
人間その本質ふさわしく存在しようとする力である。
animositasとは、
アニマつまり精神の由来する語であって、
全人格の行為としての勇気である。
スピノザは、
それら〔“fortitudo”と“animositas”との二つの概念〕を
次のように定義した。
「ところで私は、
勇気【アニモシタス(animositas)】を、
各個人
ただ理性の指図のみに従って
各自の存在に固執しようと努力する欲望
(cupiditas)であると理解する」
(第三部定理五九注釈)。
この定義は、さらに進んで、
勇気を、徳一般と同一化するにたらしめる。

ただし、スピノザは
“animositas”と
generositas”(寛大)つまり
各人その隣人を助けたり
また
友情をもって たがいに結合し合ったりする欲求
とを
区別している。
このような勇気の二重の意味、
つまり広い意味のそれと狭い意味のそれは、
われわれがさきに指摘してきたところの勇気の理念の発展の経過に
対応するものである。
このことは、
スピノザのような厳密さと首尾一貫性をもった組織的な哲学における
一つの注目すべき事実
があって、
それは次のことを示すものである。
すなわち、
勇気についてのあらゆる教説を規定している二重の認識論的側面、
一つは普遍的存在論的
他は特殊的倫理的

二面が、
ここでもまた表白されている
 ということである。
それは、
自己肯定他者への愛との関係という
倫理学上 もっとも困難な問題の一つに対して、
重大な影響をもっている。
スピノザにとって
後者【他者への愛】
前者【自己肯定】なかに含まれる

自己肯定の力とが同一であり
ゲネロシスタス〔generositas「寛大」〕が
愛情をもって他者へと向かう行為であるゆえに

自己肯定とが矛盾することありえない
のである。
それは必然的に次のことを前提としている。
つまり
自己肯定とは
いわゆる単に道徳を否定する意味での「利己主義」とは
違うということ
いやその正反対のものであるということである。
自己肯定は、
自己の本質的本性
矛盾するような感情による「存在減退」
(Seinsreduktion)
に対して、
それとは存在論的対極にあるもの
である。
エーリッヒ・フロムは、
正しい自己愛正しい他者への愛とは
相関関係にあり

また
利己主義他者悪用とが相関関係にある

という思想を詳細に展開している。
スピノザの自己肯定の教説は、
正しい自己愛

(スピノザは「自己愛」という表現を使っていないし
私もそれを用いるのに躊躇するが)
正しい他者への愛とを
そのなかに含んでいる
のである。

 スピノザによれば、
自己肯定とは
神の自己肯定への参与
なのである。
「個物、したがってまた人間が、
自己の存在を保持する能力は、
神の能力
である」
(第四部定理四)。
神の力精神が参与することは、
知と愛との二つの概念において
叙述されている。
精神が永遠の相のもとに(sub specie aeternitatis)
自己を知る限り

精神は自らが神のなかに在ること知るのである
(第五部定理三〇)。
そして
このような神の知
神における存在の知とが
完全な浄福
であり、
したがって
この完全な浄福の原因にいたる
完全な愛原因
なのである。
この愛は
精神的
【ガイスティヒ】(intellectualis)である。
それは
この愛永遠的
であって、
したがって
肉体的存在と結ばれた情熱に
服すること
ない ある感情だからである
(第五部定理三四)。
それは、
神がそれによって
自己自身を観照し愛し

かつ
その自己愛によって
彼〔神〕
属するところの人間存在愛する、
その無限の精神的愛
への参与
なのである。
これらの主張は、
これまで答えられないままであった
勇気の本質に関する二つの問いに
答えを与えてくれる。
以上の主張は、
何ゆえの自己肯定
それぞれの存在本質的本性であるのか

したがって
その最高の善であるのかという問題に答えている。
完全な自己肯定とは
けっして個人のなかに
その起源をもつような個別的行為
ではなく、
そうではなくて、
個別的行為
その力
そこからもつような
普遍的
あるいは神的な自己肯定の行為への参与
(participation)なのである。
この思想において、
勇気の存在論は、
その基本的な表現に到達した
のであった。
さらに第二の問題、
つまり
いかなる力
欲望や不安勝利を得させるのか

という問題もまた
答えが与えられている。
ストア主義者は、
この問題に
答えを与えることができなかった

スピノザは、
この〈参与という
ユダヤ教的神秘主義からくる観念によって、
それに答えている
のである。
彼〔彼〕は、
ある感情は、
もう一つの別な感情によってのみ克服されるものだ
ということ、
そして情熱がもつ感情を克服する独特な感情とは、
その情熱の本来の
永遠的根底への
精神的愛

あるいは
知的【インテレクチュアル】な愛のような精神のもつ
感情
である ということを
知っていた。
このような感情は、
神の自己愛への
精神の参与あらわれ
なのである。
存在への勇気〔生きる勇気〕可能になるのは、
それが存在それ自体の自己肯定への参与であるから
である。

 しかしながら、
スピノザにおいても、
それはストア主義者たちのもとでもそうだったが、
なお答えられないまま残っている一つの問題
があるのである。
それは、
スピノザ自身が彼の『エティカ』の最後で提起した問題である。
彼は次のように問う。
何ゆえ彼がさし示した救い(salus)の道
多くの人びとによって受けいれられない

そして
その理由について
彼は彼の書いた最後のメランコリックな一節で
こう答えているのである。
それは一つのより困難な道であり、
他のすべての崇高なものと同様に
まれにしか見出されないものだから
である、と。
ストア主義者も同じように答えた。
しかしその答えは、
救済による答えではなく、
諦念による答えなのである。”

(パウル・ティリッヒ【著】/大木英夫【訳】
『生きる勇気』
1995年、平凡社ライブラリー、35-43頁)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
〈【次のページ(0-L)】に続く〉
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
武器ではなく命の水を 
医師 #中村哲とアフガニスタン

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

私の神への愛と、神の私への愛とは、
切り離すことはできない


(引用者中略)

神は真実・愛・正義そのものになる。
私が一人の人間であるかぎり、神は私でもある


(引用者中略)

そのような人にとって、
神は、
精神世界、愛、真実、正義といったものを表現していた象徴となる。
そういう人は、
「神」が表象するさまざまな原理を信仰する

すなわち
真理について思索し、身をもって愛と正義を生きる。
彼はこう考える――
人生は、
自分の人間としての能力をより大きく開花できるような機会を
与えてくれるという意味において
真に重要な唯一の現実であり、
「究極的関心」の唯一の対象なのだ、と。

(引用者中略)

神を愛するということは
・・・最大限の愛する能力を獲得したいと願うことであり、
「神」が象徴しているものを実現したいと望むことなのである。

(引用者中略)

・・・愛や理性や正義は実在する。
それはひとえに、人間が進化の過程で、
自分自身の内部で
これら
〔愛、真実、正義〕の能力を発展させることができたからである。
この観点からすると、
人間が 自分で意味を与えないかぎり、
人生には意味がない。
人間は、他人を助けないかぎり、まったく孤独である。

(引用者中略)

神への愛とは
思考によって神を知ることでも、
神への愛について考えることでもなく、
神との一体感を経験する行為である。

 それゆえ、
正しい生き方が重視されることになる。
些細なことも重要な行為も含め、生活のすべては、
神を知るために捧げられる

ただし、
正しい思考によってではなく正しい行いによって知るのである。

(引用者中略)

スピノザの哲学では、
正しい信仰よりも正しい生き方が重視される。

(引用者中略)

東洋の宗教や神秘主義においては、
神への愛は
一体感という感覚上の強烈な体験であり、
それは、
生のすべての行為において
その愛を表現することと不可分に結びついている


 この目標にもっとも徹底した表現をあたえたのは
マイスター・エックハルトである。
それゆえ、
もし私が神となり、神が私をご自身と一つにして下さるなら、
そのとき、生ける神の御名において、
神と私のあいだにはどんな区別もない

・・・まるで神が向こう側に、
そして私たちがこちら側にいるかのように、
神を見るだろうと想像している人たちがいるが、
それはちがう。
神と私とは一つである。
神を知ることにより、私は神を私自身へともたらす。
神を愛することによって、私は神のうちへと入る
」。”

(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、106-122頁)