【0-L】「能動的情動」状態・「自由」「自己愛」を獲得せんとする《荊の道》~フロム『悪について』 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

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※太字・下線・色彩・フォント拡大などでの強調は引用者。
また、〈〉で囲った表記部分は、引用原文では傍点で強調。
引用文中でのイタリック斜体は、引用文における引用箇所
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


‟ これまで展開してきた決定論、非決定論、二者択一論の見解は、
基本的に三人の思想家の考えに従っている。
スピノザ、マルクス、そしてフロイトである。
三人とも〈決定論者〉と呼ばれることが多い。
それにはもっともな理由があり、
何より彼ら自身がそう言っている

スピノザは次のように書いている。
「精神には
絶対的な意志、あるいは自由意志というものはない。
あれをしたい、これをしたいと決めさせるのは原因であり、
その原因もまた原因によって決まり、
またそれを決める原因があり....と、無限に続く

(『エチカ』第二部、定理四八)。
スピノザは、
私たちが自分の意志は自由であると主観的に経験する
――カントやその他の多くの哲学者にとっては、
それがまさに意志が自由であることの証明だった――
のは 自己欺瞞の結果である という事実について説明している。
私たちは自分の欲望を自覚しているが、
その欲望の動機は自覚していない。
そのため
欲望の“自由”を信じている。
フロイトもまた決定論者の立場を表明している
精神の自由とその選択を信じるということ。
彼は非決定論者について、
「まったく非科学的で・・・・・・
精神生活さえ支配する決定論の主張の前には屈するしかないだろう」
と述べている。
マルクスも決定論者だと思われる。
彼は歴史の法則を発見し、
政治的な出来事は階層分化と階級闘争の結果であり、
後者は現存の生産力とその発展の結果だ と述べている

三人の思想家は
人間の自由を否定し、
人間の背後で働き、その人に何かをしたいと思わせ、
行動を決定する力を発揮するものを
人間のなかに見いだしているように思える
この意味でマルクスは、
もっとも厳密な意味でヘーゲル主義者だと言えるだろう。
彼にとっては必然に気づくことが最大の自由
なのだ。

 スピノザ、マルクス、フロイトは、
自ら決定論者と規定するような表現をしている
だけではない。
その弟子たちも、彼らを決定論者として理解していた。
それは特にマルクスとフロイトに当てはまる。
“マルクス主義者”の多くは、
歴史には修正できない流れがあるかのように
話していた。
つまり未来は過去によって決められ、
ある出来事は起こるべくして起こる
、ということだ。
フロイトの弟子の多くも、同様の見解を主張した。
フロイトの心理学は、
まさに先行する原因から結果を予測できるからこそ、科学的なのだ
と主張している。

 しかし
スピノザ、マルクス、フロイトが決定論者である
というこの解釈は、
この三人の思想家の哲学的な他の面
完全に忘れている

決定論者”スピノザの主要な業績が
なぜ倫理【エチカ】についての本なのか。
マルクスの目的が
主に社会主義革命であり、
フロイトが主にめざしたのは
精神的な病気に悩む患者の神経症の治療法であったのは
なぜなのか。

 これらの問題への答えは、ごく単純だ。
三人の思想家たちは みな、
人間や社会が ある程度まで、
特定の行動をとる傾向を持つこと、
そしてその傾向の程度が
決定的なものになりうること

理解していた。
しかし同時に、彼らは
説明や解釈をしたがる哲学者というだけでなく、
変化と変革をめざす人々でもあった
スピノザにとって
人間の務め、
つまりその倫理的目的は、
決定減らして
自由への最適条件を得ること
だった。
人間は自らを意識すること
つまり
目をくらませ鎖につなぐ情念受動的感情)を
人間としての真の興味基づいて
動けるようにする行為(能動的感情)へと
変えること
により、

それ成し遂げる
受動という感情は、
はっきりした明瞭なイメージをつくりあげられたとたん
受動ではなくなる

(『エチカ』第五部、定理三)。
スピノザによれば、
自由は〈与えられるもの
ではない
それ自由

ある制約のなかで

洞察力努力によって
手に入れられるもの
である。
精神的な強さ自覚あれば
選択肢をもつことできる
自由獲得困難であり
だからこそ
ほとんどの人が失敗する

スピノザは『エチカ』の終わりで 次のように述べている
(第五部、定理四二注記)


〈 私はこれで、
感情と精神の自由に影響する精神の力について、説明したいと
思ったことすべてを完了した。
これによって、
賢者がいかに有能であり、
欲望でしか動かない無知な人間より いかに優れているか

明らかになる。
無知な人間は さまざなかたちで外部の要因に邪魔され
精神の真の満足を決して得られないだけでなく
自分自身も ほとんど意識せずに生き
そして
耐えるのをやめる
(スピノザの言う意味で、受動的になる――フロム注)
 すぐに、
存在することをも やめてしまう

 これに反して
賢者は、
賢者として見られる限り、ほとんど心を乱されることがなく、
自分や神や物を ある永遠の必然性によって意識し
決して存在するのをやめず、
常に精神の真の満足を備えてい


 このような結果へ到達するものとして
私の示した道

きわめて困難であるように思えるが、
発見される可能性はある
また
このようにまれにしか見つからないもの
困難なもの
であるに違いない。

もし救済がすぐ手近にあって たいして苦労なしに見つかるとしたら、
ほとんどすべての人から顧みられないことが どうしてあるだろうか。

 すべての優れたもの
まれ
であるとともに困難である



 近代心理学の祖であるスピノザは、
人間に決定をさせる要因を理解しているが、

にもかかわらずエチカ』を書いているのだ。
彼〔スピノザ〕は
人間
どのようにして束縛から自由へと変化するのか

を示そうとした。
そして彼の“倫理〔エチカ〕”の概念は、
まさに
自由獲得である。
それ獲得するには
理性、適切な考え、自覚必要
だが、
それは

ほとんどの人が進んで行なおうとする以上の労力をもって
初めて可能となる


 スピノザの業績が
個人の“救済”をめざす著述
だとすれば
救済とは自覚と勤労による自由の獲得である)、
マルクスの目的もまた 個人の救済である。
しかしスピノザが
個人の非合理性について考察している
のに対し、
マルクスは その概念を拡大している。
彼〔マルクス〕は
個人の非合理性は、
その人が住む社会の非合理性が原因
であり、
その非合理性自体、
経済・社会の現実に内在する無計画さと矛盾の結果

と考えている。
マルクスの目的は スピノザと同様、
人間が自由で独立することだが、
この自由を手に入れるために、
人間は
自分の背後で動き、決定を行なわせている力
気づかなくてははらない
解放は その自覚と努力の結果
である。
もっと具体的に言うと、
労働者階級は すべての人間を解放するための歴史上の代理人である
と考えていたマルクスは、
階級意識と闘争が 人間解放のための必要条件だ
と信じていた

スピノザと同じく、
マルクスも

次のような発言の意味において決定論者だった
――あなたが何も見ようとせず
最大限の努力しないなら、
あなたは自由失うだろう

しかし
スピノザと同じく、
彼も
解釈を考えるだけでなく、
変革を望む人間でもあった。
言ってみれば
彼〔マルクス〕のしようとしていたことは
すべて、
どうすれば
気づき努力によって自由なれるか
を教える試み
なのだ。
誤解されることが多いが、
マルクスは

決して自らが予測する歴史的な出来事が必ず起こる
とは言っていなかった
彼は
常にだった。
もし〉人間が自らの背後で働いている力気づけば
もし自由勝ち取るために最大限の努力をれば
必然の鎖断ち切ることができる


(引用者中略)

 決定論者であるフロイトも
やはり変革を望んでいた

神経症を健康にして、
イドの優位をエゴの優位に置き換えることを
望んでいた。
人が合理的行動を行なう自由を失う以外
(種類はどうであれ)
どのような神経症があるのか。
人が本当に関心があるものに従って行動する以外に、
どんな精神的健康があるのか

フロイトも
スピノザやマルクスと同じように、
人がどの程度まで決定されているのか
理解していた。

しかしフロイトは
ある種の非合理的で
それゆえに破壊的な行為の衝動脅迫は、
自覚努力によって変えられる
ということも認識していた。
だからこそ、
自覚によって神経症を治療する方法
考察しようとする彼の仕事と、
その治療のモットーは
真実はあなたを自由にする

であった。

 いくつかの主要の考え方は、
三人の思想家に共通している。
(1)人の行動
それ先行する原因によって決められているが、
自覚と努力によって
それらの原因の力から自分解放することができる
(2)理論と実践は不可分である。
“救済”あるいは自由を手に入れるには、
正しい“理論”が必須である
と知っていなければならない。
しかし
行動し闘わなければ、知ることはできない
理論と実践、解釈と変化が
不可分
である

 ということは、
まさにこの三人の思想家の偉大な発見である。
(3)彼らは
人間が
独立と自由勝ち取るための闘い
敗れる可能性ある
という意味では決定論者だが、
基本的には
である。
人間は真偽を確かめることができる可能性のなかから
選択できること、
それらの選択肢のどれが現実になるかは
その人次第である

と教えていた。
スピノザは、
誰もが救済を得られる
とは信じていなかった
し、
マルクスは
社会主義が〈勝利するはずだ〉
とは信じていなかった。
フロイトは
すべての神経症が自分の開発した治療法で治る
とは思っていなかった。
むしろ三人とも
懐疑主義者であると同時に、
強い信念を持っていた

彼らにとって自由とは、
必然を意識して行動すること以上のものだった。
それは人間にとって、
ではなく善を選ぶチャンスだった。
自覚と努力に基づき、
現実的可能性のなかから選ぶチャンス
である。
彼らの立場は
決定論者でもなければ、
非決定論者でもなかった。
現実的かつ批判的なヒューマニズム
という立場だった。”


(エーリッヒ・フロム【著】/渡会圭子【訳】
『悪について』
ちくま学芸文庫、2018年、200-207頁)

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