【0-f】「自身によって能動的に何かを生み出す力」としての愛~E・フロム『愛するということ』~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

前のページ(0-e)からのつづき〉

※太字・下線・色彩などでの強調は引用者。
また、〈〉で囲った表記部分は、引用原文では傍点で強調。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

‟ ここまで私は、
人間の孤独克服としての愛
合一願望の実現としての愛について述べてきた。
しかし、合一へのそうした普遍的・実存的欲求とは別に、
もっと特殊な生物学的な欲求がある。
男と女という二つの極の合一の欲望である。
男と女は存在の二つの極である という考えを、
きわめて印象的に語っている神話がある。
その神話によると、
もともと男と女な一つだったが、
あるとき二つに切り離された。
それ以後、男は、
自分の失われた半身である女を探し求めるようになった
という
(もともと両性は一つだったというこの考えは、
イヴはアダムの肋骨から作られた という聖書の物語にも
みられる)。
・・・この神話の意味はあきらかである。
男と女という二つの極に分かれているために、
人間は特殊な形の
合一を、つまり異性との合一を求めるのだ。

(引用者中略)

 男ー女という二極性の問題から、
愛と性という主題について、
さらに議論をすすめることができる。
私〔エーリッヒ・フロム〕は先に、
愛をもっぱら性衝動の表出あるいは昇華とだけみなし、
性的欲望が愛と合一へのあらわれであることを認めない、
フロイトの誤り
を指摘した。
しかしフロイトの誤り
それだけにとどまらない。
彼は生物学的唯物論の見地から、
性衝動を、
体内に化学的に作り出される緊張の結果とみなす。
その緊張は苦しく、除去されることを求める

性的欲望の目的は
この苦しい緊張を除去することであり、
この除去が達成されたときに性的満足が得られる
というわけだ。

 性的欲望は
生物が空腹時に飢えや渇きをおぼえるのと
同じ仕組みで起こる
という点に限っていえば
フロイトの見解もまんざら見当ちがいとはいえない。
だが この考え方でいけば
性的欲望とは
痒【かゆ】みのようなもので、
性的満足とは その痒みがなくなることだ、
ということになる。
このように性をたとえるなら、
性的満足を得る理想的な方法は マスターベーションだ
ということになろう。
まったく皮肉にも、
フロイトが見落としているのは、
性の精神生物学的な側面、
つまり男-女という二極性と、
合一によって
その両極橋をかけようというという欲望である。

(引用者中略)

 緊張を除去したいという欲求は、
男と女が性的に引かれあう原因のごく一部にすぎない
異性に引かれる動機は、
主として、
性のもう一方の極合一したい という欲求である。


ーーーー(引用者中略)ーーーーー


〈親子の愛〉


 恵み深い運命のおかげで、
赤ん坊は、
生まれてくる瞬間、
母親からの分離や胎内での生活からの脱出がもたらす不安に
気づかずにすんでいる。
もし不安を知ったら、
赤ん坊は死ぬほどの恐怖を味わうにちがいない。

(引用者中略)

 成長するにしたがって、
子どもは事物をあるがままに知覚できるようになる。
満腹感と乳首とを、また乳房と母親とを、
区別できるようになる。
やがては、
渇き、乳、乳房、母親を、
それぞれ別のものとして体験するようになる。
さらに他の多くの物についても、それぞれちがった物として、
つまり
それぞれ独自に存在している物として知覚できるようになる。
この時点で、
子どもは事物を名前で呼ぶことができるようになる。
と同時に、
それらをどう扱えばいいかを知る。
火は熱く、触ると痛い。
母親の体は温かくて心地よい。
木は固くて重い。
紙は軽く、破ることができる。
人間をどう扱えばいいかも学ぶ。
食べれば、母親はほほえむ。
泣けば、抱いてくれる。
ウンチをすれば、ほめてくれる。

 これらすべての経験は統合され、
〈私は愛されている〉という経験へと結晶する。
私は母親の子どもだから愛される。
私は無力だから愛される。
私は可愛い良い子だから愛される。
母親が私を必要としているから、私は愛される。
これをより一般的な言い方でいえば、
〈私は今のような私だから愛される〉ということになろう。
もっと正確には、
〈私が私だから愛される〉ということになろうか。

 母親に愛されるというこの経験は受動的である。
愛されるためにしなければならないことは 何もない
母親の愛は 無条件なのだ。
しなければならないことといったら、〈生きていること
そして母親の子どもであることだけだ。
母親の愛は至福であり、平安であり、
わざわざ獲得する必要はなく
それを受けるための資格もない

 しかし、
母親の愛が無条件であることには
否定的な側面もある。
愛されるのに資格がいらない反面、
それを獲得しよう、作り出そう、コントロールしよう
と思ってもできるものではない。
母親の愛があるのは神の恵みのようなもので、
もし母親の愛がなく、
人生が真っ暗になってしまったとしても、
どんなことをしても創り出すことはできない。

 8歳から10歳くらいの年齢に達するまで、
子どもにとって問題なのは
もっぱら〈愛されること〉、

つまり
ありのままの自分を愛されることだけだ。
この年齢の子どもは
まだ自分からは愛さない

愛されることにたいしては 喜んで反応する。
子どもの発達のこの段階において、
新しい要素
すなわち
自分自身の活動によってを生み出すという新しい感覚が
生まれる

生まれてはじめて、
子どもは 母親(あるいは父親)に何かを〈贈る〉ことや、
詩とか絵とかを作り出すことを思いつく。
生まれてはじめて、
愛という観念は、
愛されることから、愛すること
すなわち
愛を生み出すことと変わる

もっとも、
こうして芽ばえた愛が成熟するには まだ長い年月がかかる

 やがて思春期にさしかかると、
子どもは自己中心主義克服する
つまり、
他人は 自分自身の欲求を満足させるための手段では
なくなる
他人の欲求
自分の欲求劣らず重要になる

いやむしろ
自分の欲求よりも大事になる

もらうよりも与えるほうが
愛されるよりも愛するほうが
より満足のゆく、より喜ばしいことになる
愛することによって、子どもは、
ナルシシズム自己中心主義によって築かれた
孤独と隔離の独房から抜け出す

生まれてはじめて、
合一感、共有意識、一体感といったものを知る

それだけではない。
愛されることによって
何かをもらうというのは、
何かに依存することである。
まさにそのために
自分は小さく、無力
で、
病気でなければならない

あるいは
「良い」子でなければならない
いまや、子どもは
そうした状態を乗り越え
愛することを通じて、
愛を生み出す能力自分のなかに感じる

幼稚な愛
愛されているから愛する」という原則にしたがう。

成熟した愛は
「愛するから愛される」という原則にしたがう。
未成熟な愛は
あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、
成熟した愛
あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う


(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、57-68頁)

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〈【次のページ(0-g)】に続く〉