【0-g】世界という一者の中の一個として他者に「愛を与える事」による浄福~「愛という生の技法」~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

《新型コロナ禍》を‟潜り抜けてみせた”「未来」が、あなたを待っていて、必要としている!
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
【追加】翁長雄志の『言葉』 ~ハンストという『言葉』、投票実現という『言葉』、座り込みという言葉
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

〈【前のページ(0-f)】からのつづき〉

※太字・下線・色彩などでの強調は引用者。
また、〈〉で囲った表記部分は、引用原文では傍点で強調。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


‟       〈愛の対象〉


とは、
特定の人間にたいする関係ではない。

愛の一つの「対象」にたいしてではなく、
世界全体にたいして
人が どう関わるかを
決定する〈態度、性格の方向性〉のこと
である。
もし一人の他人だけしか愛さず、
他の同胞には無関心
だとしたら、
それはではなく、
共生的愛着

あるいは
自己中心主義が拡大されたものに
すぎない


 ところがほとんどの人は、
愛を成り立たせるのは対象であって能力ではない
と思いこんでいる。
それどころか、
誰もが、
「愛する」人以外は誰も愛さないことが愛のつよさの証拠だ
とさえ信じている

これは、
私たちが先に述べたのと同じ誤りである。
つまり、
活動であり、魂の力であること
理解していないために、
正しい対象を見つけさえすれば、後はひとりでにうまくゆく
と信じている
のだ。

 この態度はちょうど、
絵を描きたいと思っているくせに、
絵を描く技術を習おうとせず、
正しい対象が見つかるまでまっていればいいのだ、
ひとたび見つかれば みごとに描いてやる、
と言い張るようなものだ。
人の ほんとうに愛する とは、
すべての人愛することであり、
世界愛し生命愛すること
である。
誰かに「あなたを愛している」と言うことが
できる
なら、
あなたを通して
すべての人を、世界を、私自身を愛している
と言えるはず
だ。

 ただし、
が 一人ではなくすべての人にたいする態度である
といっても、
愛する対象の種類によって愛にもさまざまな種類がある
という事実が 否定されるわけではない。


〈a.兄弟愛〉

 あらゆるタイプの愛の根底にある
もっとも基本的な愛
は、
兄弟愛
である。
私のいう兄弟愛とは、
あらゆる他人にたいする
責任、配慮、尊敬、理解(知)のこと
であり、
その人の人生を より深いものにしたい
という願望のこと
である。
汝のごとく汝の隣人を愛せ
という聖書の句が言っているのは、
この種の愛のことである。
兄弟愛とは
人類全体にたいするであり、
その特徴は
排他的なところまったくないことである。
もし愛する能力じゅうぶん発達していたら、
兄弟たちを愛さずにはいられない

人は
兄弟愛において、
すべての人間との合一感、人類の連帯意識、
人類全体が
一つになったような感覚味わう
兄弟愛の底にあるのは、
私たちは1つだという意識
である。
すべての人間がもつ人間的な核同一であり
それに比べたら、
才能や知性や知識のちがいなど取るに足らない。

この同一感を体験するためには、
表面から核まで踏みこむことが必要である。
もし私が他人の表面しか見なければ、
ちがいばかりが眼につき、そのために相手と疎遠になる。
もし核まで踏みこめば、
私たちが同一であり兄弟であることわかる

表面と表面の関係ではなく、
この中心と中心との関係が「中心的関係
である。

 シモーヌ・ヴェイユ
このことを次のようにみごとに表現している。
「同じ言葉〔たとえば夫が妻に言う「愛しているよ」〕でも、
言い方によって、
陳腐なセリフにも、特別な意味をもった言葉にもなりうる。
その言い方は、
何気なく発した言葉が
人間存在のどれくらい深い領域から出てきたか
によって決まる

そして驚くべき合致によって、
その言葉は それを聞く者の同じ領域に届く

それで、
聞き手に多少なりとも洞察力があれば、
その言葉が どれほどの重みをもっているかを
見極めることができるのである」。

 兄弟愛は 対等な者どうしの愛である。
しかし実際のところは、
対等な者も、
つねに「対等」というわけではない。
人間であるかぎり、
誰しも助けを必要とする。
今日は私が、明日はあなたが

ただし、
助けが必要だからといって、
その人が無力で、相手方に力がある
というわけではない。
無力さは一時的な状態
であり、
自分の足で立って歩く能力は、
人類に共通の持続的な能力である。

 とはいえ、
無力な者や貧しい者やよそ者にたいする愛こそが、
兄弟愛の始まり
である。
身内を愛することは別に偉いことではない。
動物だって子どもを愛し、世話をする。
また、
無力な者が力ある者を愛するのは、
彼の生活がその力ある者に依存しているからであり、
子どもが親を愛するのは親を必要としているからだ。
自分の役に立たない者愛するときはじめて、
は開花する

意義深いことに、
旧約聖書において、人間が主に愛するのは
貧乏人、よそ者、寡婦【かふ】、孤児
そして国の敵であるエジプト人エドム人
である。

無力な者にたいして同情の念を抱いたとき、
人は兄弟にたいする愛を育みはじめる。
また、
自分自身を愛することは、
助けを必要としている不安定で脆弱な人間
愛することでもある

同情には理解同一化の要素が含まれている。

旧約聖書いわく、
「汝らは
エジプトの地で よそ者であったがゆえに、よそ者の心を知る
……〈それゆえ、よそ者を愛せ〉」。


〈b 母性愛〉


 ……母性愛は
子どもの生命と必要性にたいする無条件の肯定である。

 だが、
ここで1つの重要なことを付け加えなければならない。
子どもの生命の肯定には2つの側面がある、
1つは、
子どもの生命と成長保護するために絶対に必要な、
気づかいと責任
である。
いま1つの側面は、
たんなる保護の枠内にとどまらない。
それはすなわち、
生きることへの愛を子どもに植えつけ
生きている ということは すばらしい
子どもである というのは 良いことだ」
この地上に生を受けたことすばらしい

といった感覚子どもにあたえるような態度
である。

 母性愛のこの2つの側面は、
聖書の天地創造の物語に、ごく簡潔に表現されている。
神は天地を創造し、人間を創造した。
これは
たんなる世話や生きることの肯定に相当する。
だが神は、
この最低限の必要性をみたすだけでは とどまらない
毎日、
自然――そして人間――を創造した後、
神は言う、「これでよし」と。
母性愛は この第2段階で、
子どもに「生まれてきてよかったと感じさせる
そして子どもに、
たんに長く生きたい という望みだけでなく、
 〈人生にたいする愛を教える
 これと同じ考えは、
聖書のまた別の象徴にも表現されているといえよう。
約束の地(大地はつねに母の象徴である)は、
「乳と密の流れる地」として描かれている。
乳は愛の第1の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。
密は
人生の甘美さや、人生への愛や、
生きていることの幸福
象徴している。

たいていの母親は
「乳」を与えることはできるが、
「密」も与えることのできる母親
ごく少数である。

密を与えることができるためには、
母親は たんなる「良い母親」であるだけでは だめで、
幸福な人間でなければならないが、
そういう母親はめったにいない


 このことが子どもに与える影響は
いくら強調しても足りない。
人生にたいする母親の愛は、
不安と同じく、子どもに感染しやすい。
どちらも 子どもの全人格に深刻な影響をおよぼす。
実際、子どもたちのなかに
――「乳」だけを与えられた者と、
「乳と密」を与えられた者とを
見分けることができるくらいである。

 兄弟愛や異性愛は対等な者どうしの愛だが、
それとは対照的に、
母親と子どもの関係は その本質からして、
一方がひたすら助けを求め、一方がひたすら与える
という不平等の関係である。
この利他的で自己犠牲的な性格のために、
母性愛は、
もっとも高尚な愛、
あらゆる情動的絆のなかで もっとも神聖なもの
と見なされてきた。
しかし、
母性愛の真価が問われるのは、
幼児にたいする愛においてではなく
成長をとげた子どもたいする愛において
である。
実際、大多数の母親は、
子どもがまだ幼く、全面的に母親に依存しているかぎり、
愛情深い母親である。
ほとんどの女性は
子どもを欲しがり、子どもた生まれると大喜びし、
熱心に世話をする。
笑顔や満ち足りた表情以外、
子どもからは何の「見返り」も得られないにもかかわらず。

 このような愛の姿勢は、部分的には、
人間だけではなく動物にもそなわっている
本能的なものに由来するようだ。
しかし、
本能的な要因が どれほどの比重を占めているにせよ、
この種の母性愛には人間特有の心理的要因が働いている。
その1つは母性愛のなかにひそむナルシシズムの要素である。
母親が子どもを自分の一部と感じているかぎり、
子どもを溺愛することは
自分のナルシシズムを満足することにもなる

また別の動機として、
母親の権力欲や所有欲を挙げることができよう。
子どもは無力で、全面的に母親の意志に従うから、
所有欲のつよい支配的な母親にとっては、
自分の支配欲を満足させる恰好の獲物
なのである。

 これらの動機は
頻繁に見受けられるものだが、
おそらくもっと重要で普遍的なのは、
超越への欲求とでも呼びうるような動機である。
この超越への欲求は、
人間のもっとも基本的な欲求の1つで、
その根底にあるのは、
人間が自己を意識しているという事実、
すなわち人間は被造物の役割に飽き足らず、
自分が壺から振り出されたさいころのような存在であることを
認めようとしない
 という事実である。
人間は自分が創造者だと思いたいのだ。
つまり、
創造された という受動的な役割を
超越する者だと思いたいのだ。

 この創造の欲求を満足させる方法は いろいろあるが、
もっとも自然でしかも簡単なのは、
母親が自分の創造した子どもを愛し、世話をすることである。
母親は
子どもをもつことによって自分自身を超越し、
幼児への愛は母親の人生に意味と目的を与える

(男が、
人工物や思想を生み出すことによって自分を超越したい
という衝動をもつのは、
子どもを産むことで超越への欲求を満たすことが
できないからである)。

 しかし、
子どもは かならず成長する。
母親の胎内から抜け出し、母親に別れを告げ、
ついには完全に独立した人間になる

母性愛の本質は
子どもの成長を気づかうこと
であり、
これは
つまり子どもが自分から離れてゆくのを望む ということである。
ここに異性愛との根本的なちがいがある。
異性愛では、
離れ離れだった二人が1つになる。
母性愛では、
一体だった二人離れ離れになる
母親は子どもの巣立ち耐え忍ぶだけでなく
それ望み、後押ししなければならない

 この段階にいたってはじめて、
母性愛は たいへんな難行となる

つまり、
徹底した利他主義
すなわち
すべてを与え
愛する者の幸福以外何も望まない能力が
必要になる

多くの母親
母性愛という務め失敗する
のも
この段階である。
ナルシシズム傾向のつよい母親、支配的な母親、
所有欲のつよい母親
が、
「愛情深い」母親でいられる
のは、
子どもが小さいうちだけ
である。
ほんとうに愛情深い女性、
すなわち
取るよりも与えることにより
大きな幸せを感じ、
自分の存在に
しっかり根をおろしている女性だけ
が、
子どもが離れてゆく段階になって
愛情深い母親でいられる
のである。

 成長しつつある子どもにたいする母親愛のような、
自分のためには何も望まない愛は、
おそらく実現するのが
もっともむずかしい愛の形
である。
ところが、
母親が幼児を愛するのは 簡単このうえないために、
そのむずかしさは なかなか理解されない
しかし、
それほどむずかしいからこそ、
ほんとうに愛情深い母親になれるのは、
愛することのできる女性

すなわち
夫、他人の子ども、見知らぬ他人
そして人類全体
愛することのできる女性だけ
なのである。
そのような意味で
人を愛することできない女性は、
子どもが小さいあいだだけは
優しい母親になれる
が、
ほんとうに愛情深い母親にはなれない

愛情深い母親になれるかなれないかは、
すすんで別離に堪えるかどうか、
そして
別離の後も変わらず愛しつづけることが
できるかどうか
による
のである。


〈c 異性愛〉

 兄弟愛は 対等の者どうしの愛であり、
母性愛は 無力な者の愛である。
この2つは たがいに異なっているが、
その性質からして対象からして対象が1人に限定されない
という点で共通している

自分の兄弟を愛するとは、兄弟全員を愛することである。
自分の子どもを愛するとは、
自分の子ども全員を愛することである。
いや、それだけではない、
子どもを愛するとは、
世界中の子ども愛し
私の助けを必要としている者すべて愛すること
である。
異性愛〉は、
この二つの愛のどちらともちがう
異性愛とは、
他の人間と完全に融合したい、一つになりたい
という つよい願望
である。
異性愛
その性質からして
排他的であり、
普遍的ではない


(引用者中略)

 異性愛には、
兄弟愛や母性愛には見られない排他性がある。
この点については もうすこしくわしくみる必要がある。
異性愛に見られる排他性は、
しばしば、所有欲にもとづく愛着だと誤解されている
「愛しあっている」二人が ほかの人には眼もくれない
ということは よくある。
じつは、
彼らの愛は 利己主義が二倍になったものにすぎない
彼らは たがいに相手に自分を同一化し、
一人を二人に増やすことによって
孤立の問題を解決しようとする。
それによって彼らは孤独を克服した と感じる
が、
彼らは
彼ら以外のすべての人びとから孤立しているので、
依然として たがいに孤立しており、
自分自身からも疎外されている

彼らが味わう一体感錯覚にすぎないのだ。

 たしかに異性愛は排他的である。
しかし
異性愛においては、人は
相手を通して人類全体

そしてこの世に生きている者すべて愛する

異性愛は、
一人の人間としか
完全に融合することはできない

という意味においてのみ、
排他的
なのである。
異性愛は、
性的融合
すなわち
人生のすべての面において全面的に関わりあう
という意味では、
ほかの人にたいする愛排除するが、
深い兄弟愛排除することはない


 異性愛には、
もしそれが愛と呼べるものなら
一つの前提がある

すなわち、
自分という存在の本質から愛し、
相手の本質と関わりあう
ということ
である。
本質において
すべての人間は同一である
私たちはみな「一者」の一部である。
私たちは「一者」なのだ

だとしたら
誰かを愛するかなどまったく問題ではない
はずだ。

 愛は本質的には、
意志にもとづいた行為
であるべきだ。
すなわち、
自分の全人生を相手の人生に賭けよう
という決断の行為
であるべき
だ。
じつは、
ひとたび結婚したら
絶対に別れてはならない

という考えの背後にあるのは、この理論
である。
かつては、
結婚する2人が たがいに相手を選ぶのではなく、
自分たちの意志かかわりなく選ばれたのだったが、
それでも
愛しあうこと求められた

そうした伝統的な結婚観の背後にあるのも、
愛は意志の行為というこの理論である。

 現代西洋社会では、
そうした考え方は とんでもない間違いだ
 とされている

つまり、
愛は 意志とはかかわりなく
自然に生まれたもの
であり、
自分ではコントロールできない感情に
突然とらわれる
のが
愛なのだ
考えられている

そうした考え方をする人は、
愛しあっている二人の特異なところしか見ていない。
すべての男は「アダム」に属し、
すべての女は「イヴ」に属している
という事実を見ていない。
〈意志〉という異性愛の重要な要因見落としている
誰かを愛する というのは
たんなる激しい感情ではない
それは決意であり、決断であり、約束である。
もし愛が たんなる感情にすぎないとしたら、
あなたを永遠に愛します」という約束には
なんの根拠もないことになる。

感情は生まれ、また消えてゆく
もし自分の行為が
決意と決断にもとづいていなかったら、
私の愛は永遠だ などと、
どうして言い切ることができよう


 以上のようなことを考慮に入れ、
次のような見解に達する人もいるかもしれない
――愛は ひとえに意志と決断の行為であり、
したがって、
当事者二人が誰であるかは基本的には問題ではない、と。
したがって、
結婚が、他人によって決められたものであろうと、
自分たちの選択の結果であろうと、
ひとたび結婚してしまったら、
意志にもとづいた行為が 愛の持続を保証すべきである、と。
この見解は、
人間の本性異性愛
パラドックスにみちている
という事実
見落としている。
すなわち、
私たちはみな「一者」だが、
それにもかかわらず
一人ひとり
かけがえのない唯一無比の存在である

他人との関係にも、
それと同じパラドックスが見られる

私たちは一つなのだから、
兄弟愛という意味では
私たちはすべての人を同じように愛する

しかし、それと同時に
私たち一人ひとり異なっているから、
異性愛は、
一部の人にしか見られない
ような、
特殊な、きわめて個人的な要素を必要とする


 したがって、
異性愛とは
ひとえに個人と個人が引きつけあうことであり、
特定の人間どうしの独特のものである
という見解も正しいし、
異性愛は 意志の行為に ほかならない
という見解も正しい。
いや、
もっと正確にいえば、どちらも正しくない

それゆえ、
異性愛は うまくいなかければ
簡単に解消できる関係である
という考え方も、
どんなことがあっても関係を解消してはならない
という考え方も、
間違っている
のである。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、76-92頁)


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〈【次のページ(0-h)】に続く〉