【0-e】愛とは、相手との相互間で、与え&得られる、生の「表出」技法(E・フロム) |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

【0-d】人間は責任性存在~エーリッヒ・フロム〈愛とは、世界や他者や自己に対する態度〉~からの続き

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

※太字・下線・色彩などでの強調は引用者。
また引用原文では傍点で強調されているものは、
引用文中では〈 〉囲みで強調表示。

なお、エーリッヒ・フロムのいう「愛」というものは、
惹かれた相手を見て、
自分が受動的に受ける熱情的なもの、ではなく、
相手に対して、他者に対して、世界に対して、そして自己に対して、
何かを生み出す能動的・創造的で陶冶的な態度関係性を描く、
ひとつ「生の態度的技法」である、と読めるので、
今記事のテーマの括りを形成させるべく、
前回記事と重複しているところがありますが、
このページでも引用していきます。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

“      〈はじめに〉

 愛するという技術についての安易な教えを期待して
この本を読む人は、きっと失望するにちがいない。
そうした期待とはうらはらに、この本が言わんとするのは、
愛するというものは、
その人の成熟の度合いに関わりなく
誰もが簡単に浸れるような感情〈ではない〉、ということである。

 この本は読者にこう訴える
――自分の人格全体を発達させ、
それが生産的な方向に向くよう、
全力をあげて努力
しないかぎり、
人を愛そうとしてかならず失敗する
満足のゆくような愛を得るには、
隣人を愛することができなければならないし、
真の謙虚さ、勇気、信念、規律を
そなえていなければならない

これらの特質がまれにしか見られない社会では、
愛する能力を身につけること容易ではない

実際、真に人を愛することのできる人を、
あなたは何人知っているだろうか。”

(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、5頁)

――――――――――――――――――


 孤立しているという意識から不安が生まれる。
実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。
孤立している ということは、
他のいっさいから切り離され、
自分の人間としての能力を発揮できない ということである。
したがって、
孤立している人間はまったく無力で、
世界に、すなわち事物や人びとに、
能動的に関わることできない
つまり、
外界からの働きかけに対応することが できない。
このように、
孤立はつよい不安を生む。

(引用者中略)

 ・・・人間のもっとも強い欲求とは、
孤立克服し孤独の牢獄から抜け出したい
という欲求である。
この目的の達成〈全面的に〉失敗したら、
発狂するほかない


(引用者中略)

 どの時代のどの社会においても、
人間は同じ一つの問題の解決に迫られている。
いかに孤立を克服するか、
いかに合一を達成するか、
いかに
個人的な生活を超越して他者と一体化を得るか
という問題
である。


(引用者中略)

 しかし、問題は同じでも答えはさまざまだ。
人間は この問題に答えるために、
動物を崇拝し、人間を生贄に捧げ、
軍隊による征服をおこない、あるときには贅沢にふけり、
またあるときは禁欲的にすべてを断念し、
また仕事に熱中したり、芸術的創造に打ちこんだりする。
さらには、
神への愛や人間の愛によって、
この問題に答えようとしてきた。
このように答えの数は多い。
その記録は人生の歴史
なのだ。

 しかし、
多いといっても無数にある というわけではない。
それどころか、末梢的なちがいを無視すれば、
これまでのさまざまな文化に属する人間が
出してきた答えも、出す可能性のあった答えも、
その数は限られている。
宗教や哲学の歴史は、
多様だが数の限られた、そうした答えの歴史
である。

 どのような答えを出すかは、
ある程度、その人間がどれくらい個人として独立しているか
による。

(引用者中略)


 そうした[孤立感から逃れる]目的を達成する一つの方法が、
ありとあらゆる種類の祝祭的興奮状態である。
いわばお祭りの乱痴気騒ぎのようなものだ。
これは
自己催眠的な恍惚状態という形をとることもあるし、
麻薬の助けを借りることもある。
原始的な部族に見られる多くの儀式は、
この種の解決法をいきいきと示している。
つかのまの高揚状態のなかで、外界は消え失せ、
それとともに外界からの孤立感も消える。
そうした儀式は共同でおこなわれるので、
集団との融合感が加わり、
それがこの解決法をいっそう効果的にする。

 この祝祭的興奮状態と密接な関係があり、
しばしばそのなかに混じっているのが、性的興奮である。
性的オルガスムは
トランス状態やある種の麻薬の効果と似た状態を作り出す。
性的な乱交の儀式は、多くの場合、
原始的な儀式の一部であった。
人びとは この集団的な興奮状態を経験した後、
しばらくは孤立感にそれほど苦しまずにすんだようだ。
やがて すこしずつ不安による緊張感がつのってくると、
ふたたび儀式が繰り返されて、緊張が解かれるのだった。

 こういた祝祭的興奮状態に部族全員が
そろって参加しているかぎり、
人びとのあいだに不安や罪悪感は生まれない。
それに参加することは正しいこととされ、美徳でさえある。
なぜなら、
それは祈祷師や祭司が認め、命じたものであり、
部族の全員が参加するものだからだ。
だから罪悪感をおぼえたり恥じたりする理由は
まったくない。

 しかし、
そうした共同の行事捨ててしまった社会に生きる個人が
同様の解決法を選ぶとなると話は別だ。
アルコール中毒や麻薬常用は、
祝祭的興奮状態知らない社会生きる個人が選ぶ解決法である
社会的に決められた解決法に参加する人びととは対照的に、
彼らは罪悪感と良心の呵責にさいなまれる
孤立感から逃れようとして
アルコールや麻薬に逃避するのだが、
興奮状態が過ぎると いっそう
孤立感が深まり、
それでますます頻繁に
アルコールや麻薬の助けを借りるはめ
になる。

 セックスによる興奮状態の助けを借りるという解決法は、
それとはすこしちがう。
性的な交わりは、
ある程度、孤立感を克服する自然で正常な方法
であり、
孤独の問題にたいする部分的な答えである。
しかし、
ほかの方法で孤立感を癒すことのできない人びとの場合は、
性的オルガスムを追求することは、
アルコールや麻薬にふけるのと あまりちがわない

彼らにとって、セックスは
孤立の不安
から逃れるための絶望的な試みであり、
結局は孤立感を深めてしまうことになる。
なぜなら、
無いセックスは、
男と女のあいだに横たわる暗い川に、
ほんのつかのましか橋をかけない
からである。

(引用者中略)

 原始社会では、
個々の集団の規模は小さく、
血と土地を分ちあう人びとから成っている。
文化が発達するにつれ、集団の規模も大きくなり、
都市国家【ポリス】の市民、大きな州の市民、教団の成員となる。
ローマの市民は
たとえ貧しくとも、
「わたしはローマ人である」(civis romanus sum)
といえることに誇りを感じていた

ローマとその帝国は
彼の家族であり、家であり、世界であった。

 現代の西洋社会でも、
孤立感を克服するもっとも一般的な方法は、
集団の一員になりきることである。
集団に同調することによって、
個人の自我はほとんど消え、集団の一員になりきることが
目的となる。
もし私がみんなと同じになり、
ほかの人とちがった思想や感情をもたず、
習慣においても服装においても思想においても
集団全体に同調すれば、

は救われる。
孤独という恐ろしい経験から救われる、というわけだ。

(引用者中略)

民主主義社会においても
ほとんどすべての人が 集団に同調している

 なぜかというと、
いかにして合一感を得るか という問いには、
どうしてもなんらかの答えが〈必要〉なのであり、
ほかに良い方法がないとなると、
集団への同調による合一が
いちばん良いということになる
のだ。
孤立したくないという欲求が いかに強いかが理解できれば、
ほかの人と異なることの恐怖
群れからほんのわずかでも離れる恐怖の大きさが理解できる
だろう。
しばしば、
「集団に同調しないことの恐怖は、
同調しないと実際に危ない目に遭うかもしれないという恐怖なのだ」
と もっともらしく説明される。
だが実際には、
すくなくとも西洋の民主主義社会では、
人びとは〈強制されて〉同調しているのではなく、
みずから〈欲して〉同調しているのである。

 たいていの人は、
集団に同調したいという自分の欲求に気づいてすらいない。
誰もがこんな幻想を抱いている
――私は自分自身の考えや好みに従って行動しているのだ、
私は個人主義者で、私の意見は自分で考えた結果なのであり、
それがみんなの意見と同じだとしても、
それはたんある偶然にすぎない、と。
彼らは、みんなと意見が一致すると、
「自分の」意見の正しさが証明されたと考える。

(引用者中略)

 ちがいをどんどんなくしてゆこうというこの傾向は、
先進工業国で発達しているような、
平等の概念やその経験と密接な関係がある。

 宗教的な文脈では、平等といったら、
われわれはみな神の子であり、
誰もが同じ人間としての高貴な資質をそなえており、
われわれはみな一つ
である
、という意味だった。
それはまた同時に、
個人と個人のちがいは尊重されなければならない
われわれが一者であること
は確かだが、

われわれ一人ひとり唯一無二の存在であり、
それ自体が一つの宇宙である
、という意味でもあった。


 個人はそれぞれ唯一無二だというこの確信は、
たとえば次のようなタルムードの言葉にも あらわれている。
一つの生命を救う者は全世界を救ったも同然である」。

 啓蒙主義哲学者たちも、
個性の発達のための一条件としての平等という意味で、
平等の概念を用いた。
啓蒙主義哲学者たちによれば
(これをもっとも明確に定式化したのはカントだが)、
何びとも
他人の目的達成のための手段であってはならない
平等とは すなわち、
自分こそが目的であって、
けっして他人の手段ではない

ということである。
どの流派の社会主義思想家たちも、
啓蒙主義の思想にしたがって、
平等を、
搾取の廃止

すなわち、利用の仕方が残虐であれ「人道的」であれ、
人間が人間を利用することの廃絶
と定義した。

 現代の資本主義社会では、
平等の意味は変わってきている

今日、平等といえば、それは
ロボットの、すなわち個性を失った人間の平等である。
現代では平等
一体」ではなく「同一」を意味する〉。
それは、
同じ仕事をし、同じ趣味をもち、同じ新聞を読み、
同じ感情や同じ考えをもつ といった、雑多なものを
切り捨てた
同一性
である。

(引用者中略)

 現代社会は、
この没個人性的な平等こそ理想であると説くが、
それは
粒のそろった原子のような人間が必要だからである。
そのほうが、
数多く集めても摩擦なしに円滑に働かせることが
できる
からだ。
全員が同じ命令に従っているにもかかわらず、
誰もが、自分は自分の欲求に従っているのだ
と思いこんでいる。
現代の大量生産が
商品の標準化を必要としているように、
現代社会の仕組みは
人間の標準化を必要としている。
そしてその標準化が「平等」と呼ばれているのだ。

 集団への同調による一体感は、
強烈でも激烈でもなく、
おだやかで惰性的である。
したがって当然ながら、
孤立からくる不安癒すには不十分である。
現代の西洋社会に見られる
アルコール中毒、麻薬沈溺、脅迫的セックス、自殺などは、
この集団への同調
必ずしもうまくいっていないことのあらわれといえる。
しかも、この解決法は
おもに精神にとって効果的で、
肉体にはあまり効果的ではないので、
この点でも祝祭的興奮状態にくらべると不十分である。
だが
集団への同調にも一つだけ利点がある。
間歇【かんけつ】的でなく、長続きする ということである。


 誕生から死まで、日曜から土曜まで、
すべての活動が型にはめられ、
あらかじめ決められている

このように型にはまった活動の網に捕らわれた人間が、
自分が人間であること、
唯一無二の個人であること、
たった一度だけ生きるチャンスをあたえられたということ、
希望もあれば失望もあり、
悲しみや恐れ、
愛への憧れ
や、
無と孤立の恐怖もあること
忘れずいられるだろうか


 一体感を得る第三の方法は、
創造的活動〉である。
それには芸術的なものもあれば、職人的なものもある。
どんな種類の創造的活動の場合も、
創造する人間は 素材と一体化する。
素材は、彼の外にある世界の象徴である。
大工がテーブルを作る場合であれ、
職人が宝石を削って磨きあげる場合であれ、
農民が穀物を育てる場合であれ、
画家が絵を描く場合であれ、
どんなタイプの創造的活動においても、
働く者とその対象は一体となり、
人間は創造の過程で一体化する

ただし、
このことがあてはまるのは、
生産的な仕事、
すなわち〈私が〉計画し、自分の眼で仕事の結果をみるような仕事のみである。
終わりのないベルトコンベアーのうえに
労働者がのっているような、現代の労働の仕組み
には、
このような仕事の対象との一体感は ほとんど見られない
労働者は 機械や会社組織の付録になっている
彼は もはや本来の彼ではない
そのため、
同調以上の一体感は けっして得られない

 生産的活動で得られる一体感は、
人間どうしの一体感ではない
祝祭的な融合から得られる一体感は 一時的である。
集団への同調によって得られる一体感
偽りの一体感にすぎない
完全な答えは、
人間どうしの一体化、他者との融合
すなわちにある。

 自分以外の人間と融合したい というこの欲望は、
人間のもっとも強い欲望である。
それはもっとも根源的な熱情であり、
この欲望こそが、
人類を、部族、家族、社会を結束させる力である。
融合を達成できないと、発狂するか、破滅する
自分が破滅する場合もあるし、
ほかの人びとを破滅させる場合もある
この世になければ
人類は一日たりとも生き延びることできない


 しかしながら、
人間どうしの結合の達成を「愛」と呼ぶと、
たいへんめんどうなことになる。
というのも、
融合を達成するには いろいろな方法がある。
しかも、
そうした方どうしのちがいは、
愛のさまざまな形どうしと比べて、
けっして小さいわけではない。
それらをすべて愛と呼ぶべきだろうか。
それとも、
「愛」という言葉は、
西洋および東洋の四千年にわたる歴史における、
すべての偉大な人間主義的な宗教や哲学体系において、
理想的な徳とされてきた、特別な種類の結合を
意味する言葉として、とっておくべきだろうか。
(中略)
大事なのは、「愛」と言ったとき、
どういった種類の結合のことを言っているのかを、
私たちが了解していることだ。
「愛」と言ったときに、
実存の問題にたいする成熟した答えとしての愛のことを
指しているのか。
それとも
〈共棲的結合〉とでも呼びうるような未成熟な形の愛のこと
言っているのか。
以下の記述においては、
前者だけを愛と呼ぶつもりだが、
まず後者から「愛」に関する議論をはじめよう。

 共棲的結合の生物学的な形は、
妊娠している母親と対峙の関係に見られる。
母親と胎児は二人であると同時に一人である。
二人は「ともに」生き(symbiosis)、
たがいを必要としている

胎児は母親の一部であり、
必要な物はすべて母親から受け取る。
いわば母親は胎児の全世界である。
いっぽう母親は胎児に栄養をあたえ、保護するが、
同時に
彼女自身の人生は胎児によって拡大する。
〈心理的〉な共棲的結合の場合には、
二人の体は たがいに独立しているが、
心理的には似たような愛着がある。

 共棲的結合の〈受動的〉な形
服従の関係
である。
臨床用語を使えば〈マゾヒズム〉である。
マゾヒスティックな人は、
堪えがたい孤立感・孤独感から逃れるために、
彼に指図し、命令し、保護してくれる人物の一部に
なりきろうとする

〔かかる者が服従する〕その人物は
いわば彼の命であり酸素である。
彼が服従する者が人間であれ神であれ、
その者の力はふくれあがる
――〔服従する相手〕〔私にとって〕すべてであり、
いっぽう私のほうは、彼の一部だという点を除けば、無である。
ただ、私は彼の一部であるから、
偉大さ・力・確実性の一部でもある。
マゾヒスティックな人は

自分で決定をくだす必要がないし、
危険をおかす必要もない。
彼はけっして
一人ぼっちにはならない
しかし、
彼は独立しているわけではない。
人格が統一されていない
いわば、まだ完全には生まれていない
のだ。
宗教の場合は、崇拝の対象は偶像と呼ばれる。
マゾヒスティックな愛情関係という世俗的な文脈においても、
本質的なメカニズムは やはり偶像崇拝である。
マゾヒスティックな愛情関係に、
肉体的・性的欲望が混じりこむこともある。
その場合には、
精神的に服従するだけでなく、体全体で服従することになる。
宿命や、病気や、リズミカルな音楽や、
麻薬や催眠術による興奮状態への、
マゾヒスティックな服従というのも ありうる。
どの場合にも、
服従する人
統一された人格を捨て去り、
自分の外にある人や物の道具になりさがる
そうなると、

生産的活動によって生の問題を解決する必要
なくなる


 共棲的融合の〈能動的〉な形支配である。
マゾヒズムに対応する心理学用語を用いれば、
サディズムである。
サディスティックな人は、
孤独感や閉塞感から逃れるために、
他人を自分の一部にしてしまおうとする。
自分を崇拝する他人を取りこむことによって、
自分自身をふくらます。

 マゾヒスティックな人が
サディスティックな人に依存しているのに劣らず、
サディスティックな人も
服従する人物に依存している。
どちらも相手なしには生きてゆけない
両者のちがいは、
サディスティックな人は
命令し、利用し、傷つけ、侮辱し、
マゾヒスティックな人は
命令され、利用され、傷つけられ、侮辱される

というだけだ。

表面的には かなりちがうが、
より深い感情面では、
両者の相違点は共通点よりも小さい。
その共通点とは、
完全性に到達しない融合
という点である。
これが理解できれば、
同じ人物が、ふつうはべつべつの対象にたいして、
サディストにもマゾヒストにもなりうる という事実も、
それほど意外ではなくなる。
たとえばヒトラーは、
民衆にたいしてはサディスティックにふるまったが、
運命、歴史、そして自然という「高位の力」にたいしては
マゾヒスティックだった。
彼の末路、すなわち全面的敗北のなかでの自殺は、
全面的支配という彼の夢に劣らず、
彼の特徴をよくあらわしている。

 共棲的結合とは およそ対照的に、
成熟した〈愛〉は、
自分の全体性と個性を保ったままでの結合〉である。
愛は、
人間のなかにある能動的な力〉である。
人をほかの人びとから隔てている壁を
ぶち破る力
であり、
人と人とを結びつける力である。
によって、人は孤独感・孤立感克服するが、
依然として自分自身のままであり、
自分の全体性を失わない

愛においては、
二人が一人になり、
しかも二人でありつづける
という、
パラドックスが起きる


 愛は活動であると言ってしまうと、
いささかめんどうな問題が生じる。
「活動」という言葉の意味が曖昧だからである。
現代の用法では、「活動というと、
エネルギーを費やし現在の状況に変化をあたえるような行為
を指す。
したがって、
事業に取り組んだり、医学を勉強したり、
たてしないベルトコンベアーのうえで働いたり、
テーブルを作ったり、スポーツに興じたりすると、
その人は活動的だとみなされる

これらの活動すべてに共通しているのは、
達成すべき目標が自分の外側にある 
という点である。
活動の〈動機〉は考慮に入っていない
たとえば、
つよい不安と孤独感にさいなまれて
休みなく
仕事に駆り立てられる人
もいれば、
野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。
どちらの人情熱の奴隷になっており、
彼の活動
能動的に見えて じつは「受動的
である。
自分の意志ではなく、〈駆り立てられているのだから。

 いっぽう、
静かに椅子にすわって、自分自身に耳を傾け、
世界との一体感を味わうこと以外なんの目的ももたず
に、
ひたすら物思いにふけっている人は、
外見的には何も〈して〉いないので、
「受動的」と言われる。
だが、実際は、
この精神を集中した瞑想の姿勢は、
もっとも高度な活動である。
内面的な自由と独立がなければ実現できない、
魂の活動
である。
活動の一つの意味、すなわち現代における意味は、
自分の外にある目的のためにエネルギーを注ぐということであり、
もう一つの意味は、
外界の変化には関わりなく、
自分に本来そなわっている力を用いるということである。

 後者の意味における活動について
もっとも明快に述べたのはスピノザである。
彼〔スピノザ〕は
感情を、
能動的な感情受動的な感情
「行動」と「情熱」とに分ける。
能動的感情を行使するとき、
人は自由であり、自分の感情の主人である
が、
受動的な感情を行使するときには、
人は駆り立てられ
自分では気づいていない動機の僕【しもべ】である

かくしてスピノザは、
徳と力とは同じ一つのものである という結論に達する。
羨望、嫉妬、野心、貪欲など情熱である。
それにたいして愛は行動であり、
人間的な力の実践であって、自由でなければ実践できず
強制の結果としては けっして実践されえない

 能動的な活動であり、受動的な活動ではない
そのなかに「落ちる」ものではなく、
「みずから踏みこむ」もの
である。
愛の受動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、
は何よりも〈与える〉ことであり、もらうことではない、
と言うことができよう。

(引用者中略)

……与えることは、
自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。
与えるというまさにその行為を通じて、私は
自分の力、富、権力を実感する。
この生命力と権力の高まりに、私は喜びをおぼえる。
私は、自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、
いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びをおぼえる。
与えることはもらうよりも喜ばしい。
それは剥ぎ取られるからではなく、
与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

(引用者中略)

 女の場合、与えるという行為は
〔セックスという行為を通じて自身を相手に与えるのに加えて〕
もう一度繰り返される。
ただし今度は恋人としてではなく、母親として。
彼女は自分の内部で成長する子どもに彼女自身を与える。
曜日に乳を与え、体のぬくもりを与える。
彼女にとっては、与えないほうがむしろ苦痛だろう。

(引用者中略)

 貧困は人を卑屈にするが、
それは貧困生活がつらいからだけでなく、
与える喜び奪われるから
でもある。

 しかし、
与えるという行為のもっとも重要な部分は、
物質の世界に
ではなく、
ひときわ人間的な領域にある
では、ここでは
人は他人に、
物質ではなく
何を与えるのだろうか。
自分自身を、
自分のいちばん大切なものを、
自分の生命を
、与える
のだ。
これは別に、
他人のために自分の生命を犠牲にする
という意味ではない。
そうではなくて、
自分のなかに息づいているものの
あらゆる表現を与える
のだ。

 このように自分の生命を与えることによって、
人は他人を豊かにし、
自分自身の生命感を高めることによって、
他人の生命感を高める

もらうために与えるではない
与えること自体がこのうえない喜びなのだ。
だが、与えることによって、
かならず他人のなかに何かが生まれ、
その生まれたものは自分にはね返ってくる

ほんとうの意味で
与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。
与えるということは、他人をも与える者にする
ということであり、
たがいに相手のなかに芽ばえさせたものから
得る喜びを分かちあうのである。
与えるという行為のなかで何かが生まれ、
与えた者も与えられた者も、
たがいのために生まれた生命
感謝するのだ。
とくに愛に限っていえば、こういうことになる
――愛とは 愛を生む力であり、
愛せないということは 愛を生むことできない
ということだ。

 マルクス
は このことを
次のように みごとに表現している

「〈人間〉を〈人間〉とみなし、
世界にたいする人間の関係を人間的な関係とみなせば、
愛は愛とだけ、信頼は信頼とだけしか交換できない
その他も同様である。
芸術を楽しみたければ、
芸術の修行を積んだ人間でなければならない。
人びとに影響をおよぼしたいと思うなら、
実際に人びとをほんとうに刺激し、
影響をあたえられるような人物でなければならない。
人間や自然にたいする君の関わり方はすべて
自分の意志の対象にふさわしいような
君の〈現実の、個人としての〉生の明確な表出でなければならない
もし愛しても
その人の心生まれなかったとしたら

つまり、
自分の愛愛を生まないようなものだったら
また、愛する者としての〈生の表出〉によっても、
愛される人間〉になれなかったとしたら
その愛無力であり不幸である
」。
 
 しかし、
与えることが すなわち 与えられることだ というのは、
別に愛に限った話ではない。
教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、
精神分析医は患者によって癒される。
ただしそれは、
たがいに相手をたんなる対象して扱うことなく、
純粋かつ生産的に関わりあったときにしか起きない


 あらためて強調するでもないが、
与えるという意味で人を愛することができるかどうかは、
その人の性格がどの程度発達しているか ということによる。
愛するためには、
性格が生産的な段階に達していなければならない

この段階に達した人は、
依存心ナルシシズム的な全能感他人を利用しようとか
なんでも貯めこもうという欲求

すでに克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、
目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を
獲得している

これらの性質が欠けていると
自分自身を与えるのが怖く
しがたって愛する勇気ない

 愛の能動的性質を示しているのは、
与えるという要素だけではない
あらゆる形の愛に共通して、
かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、
愛の能動的性質があらわれる。
その要素とは、〈配慮、責任、尊敬、知〉である。


 愛に配慮が含まれていることを
いちばんはっきりと示しているのは、
子どもにたいする母の愛である。
もし、
ある母親に子どもにたいする配慮が欠けているのを
みてしまったとしたら、
つまり子どもに食べ物をあげたり、風呂に入れたり、
快適な環境をあたえることを怠っているのを見てしまったら、
たとえその母親が
自分が子どもを愛している
と言ったとしても、
その言葉を信じることはできないだろう。
反対に、
母親が子どものことをあれこれ気づかっているのを見れば、
その愛に打たれるだろう。
動物や花にたいする愛情の場合にも同じことがあてはまる。
もしある女性が花を好きだといっても、
彼女が花に水をやることを忘れるのを見てしまったら、
私たちは
花にたいする彼女の「愛」を信じることは
できないだろう。
とは〉、
愛する者の生命と成長
積極的に気にかけることである〉。
この積極的な配慮ないところに ない



(引用者中略)

愛の本質は、
何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。
労働分かちがたいもの
である。
人は、何かのために働いたらその何かを愛し、
また、
愛するもののために働く
のである。

 配慮気づかいには、
愛のもう一つの側面も含まれている。
責任〉である。

今日では責任というと、
たいていは義務、つまり外側から押しつけられるもの
見なされている。
しかし
ほんとうの意味での責任は、
完全に自発的な行為
である。
責任とは

他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、
何かを求めてきたときの、私の対応である。
責任がある」ということは、
他人の要素に応じられる、応じる用意がある
という意味
である。
旧約聖書のヨナ書の〕
ヨナはニネべの住人に責任を感じていいなかった。
彼も、カインと同じく、
「私は弟の命の番人でしょうか」
と問うこともできただろう。
愛する心をもつ人は 求めに応じる
弟の命は
弟だけの問題ではなく、自分自身の問題でもある

愛する人は、
自分自身に責任を感じるのと同じように、
同胞にも責任を感じる

この責任をは、母子の関係についていえば、
生理的要求にたいする配慮を意味する。
おとなどうしの愛の場合は、
相手の精神的な求めに応じること
である。

 〔愛の第二の要求である〕責任は、
愛の第三の要求

すなわち尊敬〉が欠けていると
容易に 支配や所有へと堕落してしまう
尊敬は
恐怖や畏怖とはちがう。
尊敬
とは、

その語源(respicere=見る)からもわかるように、
人間のありのままの姿みて、
その人が唯一無二の存在であることを
知る能力
のことである。
尊敬とは、
他人その人らしく成長発展してゆくように
気づかうことである。
したがって尊敬には、
人を利用するという意味はまったくない
私は、
愛する人が、
私のためにではなく、
その人自身のために、
その人なりのやり方で、
成長していってほしい

と願う
誰か愛するとき、
私は
その人一体感を味わうが、
あくまで
ありのままのその人一体化するのであって、
その人を、
私の自由になるような一個の対象にする
ではない
いうまでもない、
自分が独立していなければ、
人を尊敬することはできない

つまり、
松葉杖の助けを借りずに自分の足で歩け、
誰か他人を支配したり利用したりせずにすむようでなければ、
人を尊敬することはできない。
自由であってはじめて人を尊敬できる。
フランスの古い歌の詞にあるように、
愛は自由の子」(i'amour est l'enfent de la liberté)であり、
けっして支配の子ではない。

 人を尊敬するには、
その人のことを〈知ら〉なければならない
その人に関する知識によって導かれなければ
配慮も責任当てずっぽうに終わってしまう
いっぽう知識も、
気づかいが動機でなければ、むなしい
他人に関する知識には たくさんの層がある。
愛の一側面としての知識は、
表面的なものではなく、核心にまで届くものである。
自分自身にたいする関心を超越して、
相手の立場にたって 
その人を見ることができたときにはじめて、
その人を知ることができる。
そうすれば、たとえば、
相手が怒りを外にあらわしていなくとも、
その人が怒っているのがわかる

だが、もっと深くその人を知れば、
その人が不安にかられているとか、心配しているとか、
孤独だとか、罪悪感にさいなまれているということが
わかる。
そうすれば、
彼の怒りが
もっと深いところにある何かのあらわれであることがわかり、
彼のことを、
怒っている人としてではなく、
不安にかられ、狼狽している人、
つまり苦しんでいる人として見ることができるようになる。


 他人を知ることと愛の問題とのあいだには、
もう一つ、もっと根本的な関係がある。
孤独の牢獄抜け出して他の人と融合したい
という基本的な欲求は、
もう一つのすぐれて人間的な欲求
すなわち「人間の秘密」を知りたいという欲求と
密接にかかわっている

生命は、
純粋に生物学的な側面においては
一つの奇跡であり秘密であるが、
自分にとっても他人にとっても、
一つのはかりがたい秘密である。
私たちは自分のことを知っている。
だが、どんなに努力をしても、
ほんとうの意味で自分を知ることはできない
また、私たちは友人のことを知っているが、
ほんとうには知らない

なぜなら、
私たちも友人も物ではないからだ。
私たち自身の、あるいは誰か他人の、存在の奥底へ
深く踏み入れば入るほど、知りたいと思う目標は
遠ざかるばかりだ。
それでも私たちは、
人間の魂の秘密に、
つまり「彼」そのものであるような、
人間のいちばん奥にある芯に、到達したい
という欲求を 捨てることができない


 秘密を知るための方法が一つある。
ただし絶望的な方法ではある。
それは、他人を完全に力で押さえ込むことである。
力によって、その人を私の望むように動かし、
私の望むように感じたり考えたりさせる
のだ。
それによって、その人は一個の物になる。
私の物、所有物になる
のだ。
人を知るためのこの方法を極端にまで押し進めると、
サディズムになる。
サディズムとは、
人を苦しめたいという欲求であり、そうする能力である。
人を拷問にかけ、苦しめて、秘密を白状させるのだ。
人間の秘密、彼の、そして自分自身の秘密に迫りたい
というこの渇望こそ
人間の残虐行為の激しさ背景にある本質的な動機である。

(引用者中略)

 「秘密」を知るためのもう一つの方法
である。
とは、
能動的に相手のなかへと入ってゆくことであり、
その結合によって、相手の秘密を知りたい
という欲望
満たされる
融合において、私は
あなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る

ただし、ふつうの意味で「知る」わけではない。
命あるもの知るための唯一の方法
すなわち結合の体験によって知るのであって、
考えて知るわけではないのだ。
サディズムも、秘密を知りたいという願望になっているが、
何も知ることはできない
相手の手足をばらばらに引きちぎったとしても、
それはただの破壊でしかない。
こそが他の存在を知る唯一の方法である。
結合の行為のなかで
知りたいという欲求満たされる
愛の行為において、
つまり
自分自身を与え、
相手のうちへと入ってゆく行為において
私は
自分自身を、相手と自分の双方を、人間を、
発見する


 自分自身を、そして他の人間を知りたい という渇望は、
汝自身を知れ」というデルフォイの神託の表現されている。
これこそが
すべての心理学の根本的な動機である。
しかしこの欲求は、
人のすべてを知りたい、
人間のいちばん奥にある秘密を知りたい
という欲求
であるから、
ふつうの知、すなわち思考だけによる知では
けっして満たされない
自分自身について、今よりも千倍多く知ったとしても、
奥底には到達しないだろう
自分自身も、他の人間も、依然として謎のままだろう。
完全に知るための唯一の方法
愛の〈行為〉である。
この行為は 思考を、そして言葉を、超越する
愛の行為とは、
結合の体験へと思い切って飛びこむこと
である。

ただし、
愛の行為によって完全に知るためには、
まず思考によって知る
すなわち心理学的に知ることが必要だ。
幻想、
つまり
自分が相手に関して抱いている非合理に歪んだイメージを
克服し、
相手の現実の姿を見るためには、
相手を、そして自分自身を、客観的に知る必要がある
ある人間を客観的に知ったときにはじめて、
愛の行為を通じて

その人の究極の本質を知ることができるのである。

 人間を知るという問題は、
神を知るという宗教的な問題と
平行関係にある

西洋の伝統的な神学においては、
思考によって神を知ろう、神〈について〉語ろうという試みが
なされてきた。
つまり、思考によって神を知ることができる
と考えられている。
神秘主義は、
一神論の必然的な帰結であるが……、
そこでは思考によって神を知ろうとする試みは放棄され、
神との合一体験
それ〔思考による神を知る試み〕に取って代わり、
もはやそこには神に〈ついて〉知る余裕も必要もない。

 人間どうしの合一体験も、
宗教における神との合一体験も、
けっして非合理なものではない

それどころか、
アルバート・シュヴァイツァーが指摘したように、
それは合理主義の帰結
それも、もっとも大胆で徹底した帰結である。
それは、
私たちの知には、
偶然的にではなく本質的に、限界があるのだ、
という認識にもとづいている

それは、私たちは
人間や世界の秘密を「捉える」ことは けっしてないが、
にもかかわらず
愛の行為において知ることができる
のだ、
という認識である。
心理学は科学であるから限界がある
神学の論理的帰結が神秘主義であるように、
心理学の究極の帰結は愛である


 配慮、責任、尊敬、知は
たがいに依存しあっている

この一連の態度は、
成熟した人間にみられるものである。
成熟した人間とは、
自分の力を生産的に発達できる人、
自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、

全知全能というナルシシズム的な夢捨てた人、
純粋に生産的に活動からのみ得られる内的な力に
裏打ちされた謙虚さを身につけた人のこと
である。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、23-57頁)


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