今回は、
「地域主権/地方分権//道州制」により、
<(広域)自治体>が、
アメリカの西部劇の町のような
<自己完結型完全自治体>になってしまうと、
どういう帰結・結末に運ばれてしまうのかについて、
学んでいきたいと思います。
さっそく引用を始めたいと思います。
―――――――――――――「地域主権/地方分権//道州制」により、
<(広域)自治体>が、
アメリカの西部劇の町のような
<自己完結型完全自治体>になってしまうと、
どういう帰結・結末に運ばれてしまうのかについて、
学んでいきたいと思います。
さっそく引用を始めたいと思います。
”「応益負担原則」の貫徹
「地域主権戦略」の描く地方自治は、
何より自己決定・自己責任・自己負担の団体自治であった。
現代日本の自治体に即していえば、
国から自由になった自己決定権をもち(条例制定権)、
国にできるだけ依存しないで責任を果たし
(国庫負担の一般財源化)、
自らの財政負担で行政の運営にとりくむ(自主財源主義)
自治体というのが、そのイメージとなる。
その究極の姿が、すでにふれたように、
西部劇の町の自己完結型完全自治体であった。
いまここで重要なことは、
このような完全自治体の財政には
「応益負担原則」(※)が貫徹する、ということである。
これは、現代では、二重の視点から根拠づけられる。
第1は、
各自治体は地域社会の利益を担って存在するものだから、
その地域で決め、実施されることは、
当該の住民自身の自己負担によるのが当然だ、
という古来の考え方による。
第2は、
自由な市場社会では、応能負担原則の適用は困難になる、
という考えによるものである。
応能負担原則を貫くことができないのは、
ある地域で累進課税を強化すると
金持ち連中はその地域から逃げてしまう、
企業に高い税金をかけると
企業は他所に移転してしまうためである。
現代のように経済のグローバル化がすすむ時代では、
地域どころか一国単位でも、
累進課税や法人税の強化をはかることはできない。
なぜなら、多国籍企業や富裕層は
高い税金を嫌って海外に逃れてしまうからである。
だから、国や自治体の財源は、
どうしても
そこ[=応益負担原則]から逃げ出すことができない税源に
頼らざるをえない。
現代の「地域主権戦略」や分権化論は、
おおよそこのような財政論に立脚しているのである。
じつは、これを裏返すと、
福祉国家の分権的解体路線があらわれる。
なぜなら、現代の分権化論は、グローバル化のもとでは
応能負担原則にもとづく垂直的所得再分配国家は
不可能になる、
という見方を出発点にしたものだからである。
富裕層に高い税金をかけ、
その所得を低所得・貧困層にまわすタイプの
垂直的所得再分配型福祉国家は
[グローバル経済の下では]およそ不可能になった、
だから分権化するしかない、というのが
現代の分権化論の共通の認識になっている、といってよい。
「新しい公共」のもとでの
ローカル・ガバナンス化
そこで、「地域主権戦略」も、
地域を単位した受益者負担の自治体を将来に描き出す。
この「地域単位の受益者負担主義」が出発点にすえられると、
自治体は「受益と負担の関係」の明確化にそった行財政運営を
迫られることにならざるをえない。
なぜなら、自治体は
住民にたいして、
公共サービスの受益の見返りとして
負担を強いる団体になるからである。
いいかえると、自治体は
「受益と負担の関係」を外圧として
財政的効率を追求する団体、
つまり1つの経営体に変貌していく。
このいわば地域経営体としての自治体に適用されるのが、
NPM(New Public Management=新しい公共管理)に他ならない。
NPMとは、
民間企業の経営管理方式を公共機関に適用する手法である。
NPMが第1の課題にするのは自治体経営の効率化、
つまり安上がり化である。
効率化は、
公共サービスのアウトソーシング化(外注化)と
公務労働の安上がり化を主眼にしてすすめられる。
地域経営体とNPMのもとで形成される「公共空間」は、
従来の地方公共団体のもとで築かれた公共空間とは、
まったくといってよいほどに様相が異なったものにならざるをえない。
(引用者中略)
こうして、
「地域主権単位の受益者負担主義」から出発した自治体は、
「新しい公共
=協働空間[企業やNPO等の市民組織で多元的に担う格好]」を担う経営体に変貌し、
地方政府(local government)は地域協働経営体へ、
すなわちローカル・ガバナンス(local governance)へと
変質することになる。
このローカル・ガバナンスが、
教育権や生存権を保障するための行政水準を引き上げるもになるか、
これは期待するのがそもそも無理というべきである。
なぜなら、ローカル・ガバナンスの第1の使命は
効率化にあって、
公共性の追求を最優先にするものではないからである。
NPMを使って
自治体のローカル・ガバナンス化をはかろうとする際には、
1つの難問がある。
その難問とは、
そもそも自治体とは
憲法等で要請される公共目的を実現するための機関であって、
民間企業のように営利性や効率性を目的とするものではない、
という点である。
個々の行政の公共目的の設定は
国民の立法権に属すること、
具体的には議会制民主主義を通じてすすめられることである。
「地域主権戦略」が
自治体の立法権(条例制定権)を拡大するというのであれば、
なおのこと地方議会の役割が重要になるはずである。
こうして、ローカル・ガバナンス化の前には、
議会制民主主義が立ちふさがる。
そこで、これを突破するために、
「地域主権戦略」は
議会制民主主義の弱体化にとりかかる。
議会にかわって公共目的を設定するのは誰か。
いうまでもなく、
それは首長の掲げるマニュフェストにほかならない。
だからこそ、
分権化をとなえ、「地域主権」を叫ぶ勢力はこぞって、
国・地方の議員定数削減、
首長・議会の二元制見直しを主張し、
マニュフェスト政治の名の首長独裁制をめざすのである。
これが実現すれば、
自治体のローカル・ガバナンス化はほぼ完成し、
かわりに自治体の原点であった住民自治は、
文字通り空洞化することになるであろう。”
二宮厚美 「憲法体制を掘り崩す『地域主権』と『新しい公共』」
『月刊クレスコ』(2011年1月号 NO.118)所収 P.15-17
以上の二宮氏による指摘・論考の引用で
まず明確になるのは、
ちょうど「経済のグローバル化」に
<いち国家>が巻き込まれることで、
<その国家とその国民>が、
<大企業など>に
”買い叩かれてしまってきている”ように、
「道州制/地域主権改革」では、
<企業>や<富裕層>に、
<地方自治体>どうしが、
”足元を見られ”たり、
”天秤に架けられてしまうために、
「福祉国家」を営むためには欠かせない
「富の公平な再分配/応能負担原則」の税制が、
どうしても出来なくなってしまうことであります。
そうして、
「地域主権改革/道州制導入」後の<自治体>では
「応能負担」原則の税体系が捨てられるので、
公共サービスや社会保障に充てられる予算が、
どんどん狭められていく、
あるいは少なくとも、税収・財源が小さくなるので、
それにともなって、
公共サービスや公務労働の”安上がり化”
――民営化・住民負担――
を、
余儀なくされるのを、学ぶことができます。
「官製ワーキングプア」が、
さらに拍車がかかったり、
また住民自身が、自発的参加の形で、
担わざるをえなくなるでしょう。
さらに、「税源」問題のほかに、
他の自治体との「企業誘致競争」から、
<自治体>は、
<企業>が他所に逃げて行ってしまうような
「保護規制」などを設定することが、
難しくなるでしょう。
それは、「経済のグローバル化」以降の、
「規制緩和」や「構造改革」の経験で、
すでに私たちは、痛い目に遭っているからです。
※ 引用文中の強調は引用者。
「受益と負担の関係」を外圧として
財政的効率を追求する団体、
つまり1つの経営体に変貌していく。
このいわば地域経営体としての自治体に適用されるのが、
NPM(New Public Management=新しい公共管理)に他ならない。
NPMとは、
民間企業の経営管理方式を公共機関に適用する手法である。
NPMが第1の課題にするのは自治体経営の効率化、
つまり安上がり化である。
効率化は、
公共サービスのアウトソーシング化(外注化)と
公務労働の安上がり化を主眼にしてすすめられる。
地域経営体とNPMのもとで形成される「公共空間」は、
従来の地方公共団体のもとで築かれた公共空間とは、
まったくといってよいほどに様相が異なったものにならざるをえない。
(引用者中略)
こうして、
「地域主権単位の受益者負担主義」から出発した自治体は、
「新しい公共
=協働空間[企業やNPO等の市民組織で多元的に担う格好]」を担う経営体に変貌し、
地方政府(local government)は地域協働経営体へ、
すなわちローカル・ガバナンス(local governance)へと
変質することになる。
このローカル・ガバナンスが、
教育権や生存権を保障するための行政水準を引き上げるもになるか、
これは期待するのがそもそも無理というべきである。
なぜなら、ローカル・ガバナンスの第1の使命は
効率化にあって、
公共性の追求を最優先にするものではないからである。
住民自治の空洞化
NPMを使って
自治体のローカル・ガバナンス化をはかろうとする際には、
1つの難問がある。
その難問とは、
そもそも自治体とは
憲法等で要請される公共目的を実現するための機関であって、
民間企業のように営利性や効率性を目的とするものではない、
という点である。
個々の行政の公共目的の設定は
国民の立法権に属すること、
具体的には議会制民主主義を通じてすすめられることである。
「地域主権戦略」が
自治体の立法権(条例制定権)を拡大するというのであれば、
なおのこと地方議会の役割が重要になるはずである。
こうして、ローカル・ガバナンス化の前には、
議会制民主主義が立ちふさがる。
そこで、これを突破するために、
「地域主権戦略」は
議会制民主主義の弱体化にとりかかる。
議会にかわって公共目的を設定するのは誰か。
いうまでもなく、
それは首長の掲げるマニュフェストにほかならない。
だからこそ、
分権化をとなえ、「地域主権」を叫ぶ勢力はこぞって、
国・地方の議員定数削減、
首長・議会の二元制見直しを主張し、
マニュフェスト政治の名の首長独裁制をめざすのである。
これが実現すれば、
自治体のローカル・ガバナンス化はほぼ完成し、
かわりに自治体の原点であった住民自治は、
文字通り空洞化することになるであろう。”
二宮厚美 「憲法体制を掘り崩す『地域主権』と『新しい公共』」
『月刊クレスコ』(2011年1月号 NO.118)所収 P.15-17
以上の二宮氏による指摘・論考の引用で
まず明確になるのは、
ちょうど「経済のグローバル化」に
<いち国家>が巻き込まれることで、
<その国家とその国民>が、
<大企業など>に
”買い叩かれてしまってきている”ように、
「道州制/地域主権改革」では、
<企業>や<富裕層>に、
<地方自治体>どうしが、
”足元を見られ”たり、
”天秤に架けられてしまうために、
「福祉国家」を営むためには欠かせない
「富の公平な再分配/応能負担原則」の税制が、
どうしても出来なくなってしまうことであります。
そうして、
「地域主権改革/道州制導入」後の<自治体>では
「応能負担」原則の税体系が捨てられるので、
公共サービスや社会保障に充てられる予算が、
どんどん狭められていく、
あるいは少なくとも、税収・財源が小さくなるので、
それにともなって、
公共サービスや公務労働の”安上がり化”
――民営化・住民負担――
を、
余儀なくされるのを、学ぶことができます。
「官製ワーキングプア」が、
さらに拍車がかかったり、
また住民自身が、自発的参加の形で、
担わざるをえなくなるでしょう。
さらに、「税源」問題のほかに、
他の自治体との「企業誘致競争」から、
<自治体>は、
<企業>が他所に逃げて行ってしまうような
「保護規制」などを設定することが、
難しくなるでしょう。
それは、「経済のグローバル化」以降の、
「規制緩和」や「構造改革」の経験で、
すでに私たちは、痛い目に遭っているからです。
※ 引用文中の強調は引用者。
<参考記事>
○ 二宮厚美 氏「『憲法』体制を”掘り崩す”<地域主権>と<新しい公共>」
○ 二宮 厚美 氏 「『憲法』体制を”掘り崩す”<地域主権>と<新しい公共>」(2)
○ マスコミは教えてくれない「格差不公平税制」と、その一角としての「一般消費税」(前編)
○ 二宮 厚美 氏 「『憲法』体制を”掘り崩す”<地域主権>と<新しい公共>」(2)
○ マスコミは教えてくれない「格差不公平税制」と、その一角としての「一般消費税」(前編)
○ 「地方自治体再建型破綻法制」について
――――――――――――――――――
――――――――――――――――――
http://www1.seaple.ne.jp/harimoto/page061.html より
保険料負担の考え方には
「応益負担」と「応能負担」という二つの考え方があります。
「応益負担」とは
保険給付を受ける可能性が高い人ほど多くの保険料を負担する
という原則です。
民間の保険はこの考え方に立っています。
これに対して、
所得の高い人ほど多くの保険料を負担するという考え方が
「応能負担」です。
結果として、
所得の高い人から低い人に所得が移転する、再分配される
ということが起こります。
現在の社会保険では「応能負担」の原則が採用されています。
健康保険が一番わかりやすいですね。
保険料は所得によって違いますが、
治療の内容が保険料によって変わることはありませんよね。
「応能負担」の原則の根底には、
相互扶助と社会連帯という高邁なヒューマニズムに基づいた
社会保障の基本的な考え方があります。
応能のギャップが過大であっては問題でしょうが、
単なる「損するから」という個人の損得論議になってはいけない(精神の貧困)と思っています。