青森県下北半島北東部の廃校休校巡り:前編(2022/09/22) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

今回は下北半島北東部の廃校休校巡りですが、具体的には

上図の通り下北郡東通村を訪れました。

東通村は、本州最北端青森県下北半島の北東部に位置する、

東西20km、南北36kmの細長い村です。
西にむつ市と横浜町、南に六ヶ所村に隣接しています。

東に太平洋、北に津軽海峡に面し、海に突き出た半島北端に

風光明媚な尻屋崎があります。

人口は5,674人(2023年1月1日推計)です。

東通村では、2004年(平成16年)度時点で小学校16校、

中学校6校があり、人口に対して学校数が極めて多かったため、
学校の統合を推進、2008年(平成20年)4月に中学校6校を1校に、

2009年(平成21年)4月には小学校16校を1校にしました。


むつ市街から国道279号を北上、早掛沼公園への脇道に入り

東通村の大利(おおり)地区に着きました。

高台に校門と階段が残っています。

 

校門に往時の表札も確認できましたが。。

 

校庭には、ロールベールラップサイロが積み上げられていました。

ロールベールラップサイロとは、牧草をラップして円筒状に

梱包し家畜飼料として貯蔵しておくものです。

校舎の姿はなく、聞けば2022年(令和4年)6月に落札した

業者によって解体、撤去されたようです。

 

地元の方が差し出した閉校記念のアルバムを拝見すると、

往時の木造校舎や校歌が見開き1ページになっています。

もう少し早く来ればよかったと言われましたが、残念です。

 

さらに、閉校記念の集合写真も見せて頂きました。

眩しいほどの朝日が直射し見えにくいのですが、大勢の卒業生、

老若男女総勢300名ほどが校舎を背景に収まっています。

撮影日は閉校年度の2004年10月6日です。

 

大利小学校(2005年閉校)

1877年(明治10年)開校
1987年(昭和62年)全校児童15名
2005年(平成17年)新設の東通小学校への統合に伴い閉校

すでに解体済みで、アルバムのページでしか見ることが出来ませんが、

地元の方々からも惜しまれつつ姿を消していった木造校舎です。。

 

大利から隣の目名(めな)地区に入ります。

県道6号沿いに広大な敷地をみてバイクを停めます。
 

目名小学校跡は避難場所に指定されていますが、敷地内に

校舎はありません。すでに解体済みでした。時期は不明。

 

解体前の校舎

後で調べたところ、少なくとも2016年(平成28年)までは

屋根など損傷が激しい箇所もありますが、何とか存在していた

ようです。

 

目名小学校(2005年閉校)
1879年(明治12年)12月創立
1987年(昭和62年)全校児童31名
2005年(平成17年)新設の東通小学校への統合に伴い閉校
最後の児童数は15名。

 

引き続き県道6号を進み、隣の蒲野沢(がまのさわ)地区に

入ります。

沿道の脇に低い校門、樹木の奥に校舎が垣間見えました。
 

コンクリートの校門に往時の表札が残っています。

 

樹木のトンネルを抜けると、視界が開け大平原の向こうに

長い平屋校舎が横たわっていました。

 

校舎の正面近景1

茶色に錆びたトタン屋根の平屋校舎は、1951年(昭和26年)

建築の古い校舎です。

 

校舎の正面近景2

校庭が広く、校舎が見えても校門から玄関まで遠いので、

毎日登校していた児童らは大変だったことでしょう。。

 

壁面に描いた言葉は、樹木に一部隠れていますが、

「うけつごう未来へ」

 

正面玄関の近景

止まったままの丸時計。

潰れた校章。

文字が消えてしまった木板の表札。

 

校庭の様子

牛や馬を放牧している牧草地のようです。

 

入口に立つ木柱には2枚の横板が組まれています。

児童らが卒業記念に制作したウエルカムボードだったようですが、

文字は消えていました。

 

創立百周年記念碑

題字は「真心」

昭和62年10月11日建立。

 

石持小学校(2005年閉校)

1887年(明治20年)4月1日 蒲野沢小学校石持分校設置
1899年(明治32年)5月 蒲野沢小学校石持分校が独立し、

石持尋常小学校となる
1947年(昭和22年)4月1日 東通村立石持小学校と改称
1951年(昭和26年)校舎新築
1987年(昭和62年)全校児童23名
2005年(平成17年)3月31日 東通小学校への統合に伴い閉校

東通村の各集落にあった小学校の一つが石持小学校です。

長い校舎は、廊下を雑巾がけするのも大変だったことでしょう。。

 

石持小学校跡から県道6号を北上、野牛口から分岐路を進むと

野牛集落に着きます。

道標には、児童らの描いた絵が付いています。

消防車の絵はリアルに描いてありますね。。

 

子どもの火遊び禁止を描いた標語と挿絵

 

閉校後も避難場所として指定されています。

 

赤屋根に平屋校舎です。

 

赤レンガ塀に往時の銘板

 

幼稚園も併設されていたようです。

 

校舎の全景

敷地が狭いのでは両端までは収まりませんでした。。

 

校庭に周ってみると全景が撮れました。

講堂(体育館)と校舎が一列に並んでいます。

 

講堂(体育館)の全景

木枠の窓に下見板張りの壁から温もりが伝わって来ます。

1968年(昭和43年)建築です。

 

窓はサッシに替わっていますが、1958年(昭和33年)築の

年季の入った木造校舎です。

壁に取り付けられている錆びたタラップは、屋根の雪下ろしの

為でしょうか。。

 

校庭の様子

広大な校庭は、牧草地になっているのでしょうか。。

校名の如く、牛を放牧しているのかもしれませんね。。

 

再び正面玄関に戻ってきました。

手作りの郵便受け

 

手作りの吊るし飾りが、童心に返ったように心を和ませて

くれます。

 

石油ストーブに応接セット、事務机などが残っていますが、

校長室でしょうか。。

 

教育標語

 

時間割表

「野牛タイム」という時間割は、ホームルームのことでしょうか。。

 

廊下の様子1

天井に吊るした標語も「のびのびと」書いてあります。

 

廊下の様子2

 

廊下に放置されたトランポリン

 

幼稚園の教室(入口)

 

幼稚園の教室(室内)

 

「はだし」の効用を寄せ書きしてありました。

教室ではみんな「はだし」だったのでしょうか。。

 

浜辺で集めた貝殻の標本

 

教室の様子

 

学校の出来事を書いた手作りの年表

 

講堂(体育館)の入口とボンボン飾り

児童らが心を弾ませて入って行く姿が想起されますね。。

 

カラフルなテントウ虫の絵は、微笑ましく楽しそうです。

 

講堂(体育館)の様子
 

ステージの横断幕

 

最後の卒業証書授与式の横断幕

 

なわとび検定基準表

 

一輪車も熱心に練習していたようです。

 

前庭にある東屋と子牛の像

 

正面玄関の横には、もっと大きくて力強いのがいます。

牛を慈しみ親しみをもって接していたのでしょう。。

 

肩を組む少年少女の像

創立百周年記念碑の台座の銘板には「進取 忍耐 努力」

閉校記念の銘板も貼りつけてありました。

 

野牛小学校(2005年閉校)

1879年(明治12年)創立

1958年(昭和33年)校舎新築

1968年(昭和43年)屋内体育館完成
1981年(昭和56年)中学校閉校、同時に幼稚園を併設

1987年(昭和62年)小学校全校児童は16名

2002年(平成14年)幼稚園休園
2005年(平成17年)東通村立東通小学校への統合に伴い閉校
手作りの年表をみると、平成初期にはRAB青森放送主催の音楽

コンクールで何度も受賞しています。

少数精鋭で勝ち取った栄光ですね。。

子供らの歌声も聞こえなくなった校舎は、役目を終えたのか、

静かな佇まいでした。。

 

野牛浜に沿って県道6号を進みます。

下北半島の北東部は牛の角のように尖った形をしていますが、

先端部の尻屋崎に向かっている途中で、放牧場に立ち寄りました。

 

寒立馬(かんだちめ)の案内図

青森県下北郡東通村尻屋崎周辺に放牧されている馬は

寒立馬と呼ばれ、胴長短足の体格ですが、厳しい冬にも耐えられる

たくましい馬です。

1970年(昭和45年)に尻屋小中学校の岩佐勉校長が年頭の

書き初め会で、「東雲に勇みいななく寒立馬 筑紫が原の嵐ものかは」

と詠んで以来、「寒立馬」と呼ぶようになったそうです。

 

茶色や白、黒の毛色の寒立馬。

見物に近寄っても慣れているのか逃げたりはしませんでした。

大人しく優しい目をしていました。

しばらく干し草を食んでいましたが、端へ遠ざかっていきました。

 

かつては軍用馬として重用されましたが、その後は農耕馬として

活躍しました。

機械化により需要が激減すると、1995年(平成7年)には9頭まで

減少、存亡の危機に直面しましたが、官民挙げて保護に努め

1998年(平成10年)には26頭まで回復しました。

 

ちょうど、カブで日本一周している方と遭遇しました。

関西から青森まで約1,000kmを走ってきた小生ですが、

上には上がいるものです。。

カブでは一般道しか走れないのに、日本一周とは恐れ入りました。。

 

尻屋崎へ向かう県道6号は、灯台の手前約2㎞で南に向きを変えます。

沿道から体育館や校舎が見えました。

 

校門代わりの木柱に刻まれていたのは「愛と寒立馬の里」

 

片方には、校名が刻まれています。

 

近代的な木造建築が3棟並んでいますが、左端が体育館です。

 

体育館の全景

 

校舎はコの字の配置、モダンな建物です。

奥に灯台が見えますね。。

 

正面玄関の近景

勿論、灯台は実物ではなく学校のシンボルとして建てられたものです。

伊良湖岬小学校や日御碕小学校など、灯台近くに位置する小学校は

他にも訪れましたが、このような光景は初めてです。

精巧に造られており時計塔になっています。

 

小学校の文字盤と校章

 

校庭の様子

 

尻屋小学校(2009年閉校)

津軽海峡と太平洋に囲まれ、校舎周辺は自然が豊かで漁業の

盛んな地域です。

沿革をみると、

1875年(明治8年)創立
1964年(昭和39年)全校児童79名

1987年(昭和62年)全校児童64名
1999年(平成11年)校舎新築
2000年(平成12年)屋内体育館新築
2009年(平成21年)東通小学校への統合に伴い閉校
最後の児童は12名

本州最北東端に位置する小学校でしたが、児童数減少により

閉校となってしまいました。

校舎や体育館はまだ新しく、別の目的で使われることでしょう。

シンボルの灯台はそのまま残してほしいですね。。

 

いよいよ最北東端の尻屋崎まで来ました。

遠方に灯台が見えます。

 

灯台への遊歩道は海岸沿いに続いています。

なだらかな丘の上に立つ灯台、異国情緒が漂います。

 

地上から頂部まで33m、背の高い灯台です。

 

周辺の海は晴天に恵まれ波も穏やかです。

水平線がくっきり見えますね。。

 

ズームアップすると、大海原に小さな漁船が一隻走っています。

長閑な光景です。

 

バス停

津軽半島の竜飛崎と違ってこちらは観光客も少なく穏やかです。

 

周辺は岬特有の断崖絶壁はなく、平原が広がっていて

散策していて心地よさが感じられます。

 

岩礁は幾つかありますが、荒々しい雰囲気はありませんでした。

 

岬の北側は津軽海峡、東側は太平洋。

潮の変わり目となっています。

 

丘の上に立つ白亜の灯台(太平洋側から撮影)

風が強く、かつては多くの船舶が座礁・遭難して難破岬として

恐れられていたそうです。

 

尻屋崎灯台百周年記念碑

 

本州最涯地の碑

 

1876年(明治9年)イギリス人のリチャード・ヘンリー・

ブラントンの設計により建てられた尻屋埼灯台は、レンガ造りでは

日本一の高さを誇り、東北最古の洋式灯台です。

 

2022年(令和4年)12月12日、国の重要文化財に指定されました。

日本の灯台50選にも選ばれています。

 

4月下旬から11月上旬までの期間に限り一般公開され、

上まで登ることができます。

 

1876年(明治9年)10月20日 初点

 

「燈の守り人」(あかりのもりびと)は、燈の守り人製作委員会、

日本財団「海と日本プロジェクト」が手掛ける全国の灯台を

擬人化したプロジェクトです。

高さ33m、128段の階段を上ると津軽海峡と太平洋を一望できます。

 

尻屋埼灯台 施設概要の解説板

つい感激のあまり、灯台の写真を撮りまくってしまいました。。

最果ての地で、航行の安全を見守り続けている灯台には

いつも魅了されてしまいます。。