116 八角形の巨大な人工地形が八女市に存在する | ひぼろぎ逍遥

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116 八角形の巨大な人工地形が八女市に存在する

20140809


久留米地名研究会 古川清久


グーグル・マップをお使いの方はかなりおられると思いますが、お手数ですが、「八女市龍ケ原」と入力して付近を見て頂くと、一辺300メートルの巨大な八角形が確認できると思います。

現地は真っ平らな整地された地形となっており、農耕地や住宅地が混在していますが、ほぼ、この八角形に沿って道路が存在し、なお、原形を留めているようです。

この地が八女市であること、復元された菊池城の最大の施設の八角形であること、付近には逆賊磐井(筑紫の君、実は九州王朝倭国王)の墓と言われる岩戸山古墳などがあること、さらにはこの八角形の真中を通る線(道路になっている)を北に延ばすと、高良大社に当たること等々を考え合わせると、“これはどえらいものではないか”と俄かに色めき立ったのでした。

当然にも、念頭にあったのは菊池城に復元された鼓楼=八角楼であり、菊池、山鹿の呉の太伯の裔=松野一族(「松野連系図」国立国会図書館所蔵によれば、卑弥呼、ヤマトタケル、倭五王を輩出したとする)のことでした。

この情報を持ち込んだのは、久留米地名研究会の事務局長ですが、彼は五年程前に、岩戸山の博物館の館長あたりから、「付近にある岡山という小丘から明治天皇が陸軍の演習を閲兵した」「その演習場が八角形をしていた」という話を聞き、以来、気になり、最近、グーグル・アースあたりで調べていたらそれらしきものがあることを発見し、八角形の一辺が300メートルはあることから今回の話になったものです。 


当然にも、もしも、これが古代からのものであり、その地形が現在まで残されているものとすると、どえらいものであり、その中央には古代には鼓楼が存在し、今なお、その礎石でも埋もれているのではないかと考えたのでした。

グーグル・マップで実際にこの地形を見なければ分かりませんので、まずは、グーグル検索を呼び出し、「八女市」「龍ケ原」と入力し、Webではなく、地図をクリックして下さい。大きさを調整すれば、高速道路の東側に巨大な八角形が浮かび上がります。


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鞠智城跡では、国内の古代山城では似かよった例を見ない、4基の八角形建物跡が見つかっています。韓国の二聖(イーソン)山城でも同じようなものがあり、注目されます。
 特別な性格の施設であったことをうかがわせる、八角形という特殊な形であったことから、鼓の音で時を知らせたり、見張りをしたりするための「八角形鼓楼」として復元しました。
 復元した「八角形鼓楼」は、高さ15.8mで、重量約76トンの瓦が載る建物です。一帯に響いた古代の鼓の音、遠く故郷を離れた防人たちの姿を感じてみてはいかがですか。



文と画像は116-2 より切り出したもの。



ただし、あえて申し上げておきますが、この「日本書紀」を最終の判断材料とする現在の考古学会の通説におもねた表現であり、「一帯に響いた古代の鼓の音、遠く故郷を離れた防人たちの姿を感じてみてはいかがですか。」については全く頂けないものであり、この菊池城が白村江の敗戦後に大宰府、ひいては日本の防衛のために送り込まれた防人が聴いていたなどとは間違っても考えるべきではないでしょう。

まず、太宰府防衛のための兵站基地としては即応性がないことは明らかですし、そもそも、太宰府の水城にしても天智天皇が660年に築いたものなどではないのです。

ただ、それについては、ここでは多くを触れるつもりはありません。

現在、水城の再調査が半世紀ぶり?に行われているところですが、実は、二十年ほど前に水城の滑落防止のために施工されたと考えられる敷き粗朶の年代測定が行われています。

そして、驚くことに三層の粗朶があり、一番下が紀元230年、二番目が430年、そして、一番上が、660年と言う数字が出ているのです。また、木樋にあっては、紀元前まで出る始末で、実際には、当時の担当者も知っているはずなのです。

それを、混乱を回避するためか、日本書紀に刷り合わせ、660年だけを公表しているらしいのです。

この辺りについては、久留米地名研究会のHP「太宰府は日本の首都だった

内倉武久による「九州倭国政権の存在から見た考古学上の重要遺跡」の掲載について”から内倉武久氏(元「朝日新聞」記者、地名研究会考古学関係顧問で「卑弥呼と神武が語る日本の古代」ミネルヴァ書房他3著)の説と、ユーチューブから内倉講演「太宰府は日本の首都だった」(九州国立博物館における講演録)他をお聴き下さい。

嫌味なのは百済金銅仏から百済との交流、町興しへと導入するための「韓国の二聖(イーソン)山城」の仕掛けであり、何でも朝鮮半島経由でやってきたとする故佐原何某のような印象を与えようとしているように見えることです。

まあ、そのこと自体は事実でしょうから、あえて抗う必要はありませんが、鼓楼を現在でも造り続けているのは、雲南省、貴州省…の少数民族地帯の江南系の民族(一例として上げれば貴州省のトン族)なのです。

漢族の急迫に対していち早く急を知らせるための鐘(ドラ)や太鼓の音を少しでも遠くに届けるために造られたのが鼓楼であり、マディソン郡の橋=呉橋と併せ、呉の流れを汲む江南系の文化であり施設だと思うものです。



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龍ケ原交差点



お話では、八角形が存在した場所は、亀ノ甲ではなく、龍ケ原(タツガハラで一部リュウガハラと言う人もいるとの事)であり、付近に龍ノ峰(リュウノミネ)という山もあり、龍のようにうねった形をしていたところを平らにしたもので、初めから平らだったのでは全くないとのことでした。

ここまでお聴きすると、やはり、終戦間際のにわか造成は間違いなく、陸軍が意識的に飛行場を八角形に造ったことが見えてきたのでした。

そこまで、聴くと直ぐに頭に浮かんできたのは、飛行場は離着陸を考えれば八角形は理想に近く、如何なる風向きに対しても常時対応できる上に、造成面積を最小限に留められることになるのです。

現在でも、航空母艦の滑走路がX字になっているのはその意味があるのです。

お話では、二枚羽根の複葉機が飛んでいた(航空隊の教育隊)とのことであり、一片の長さ300メートル程度の八角形という大きさは、効率的かつ手ごろだったのでした。

お話では、戦後の食糧難に対応するため(多くの復員兵や引揚者が発生したからです)八角形をそのまま利用して農地や住居が造成され、開拓開墾事業が行われた(飛行場だったことから地盤が固く直ぐには農地にならない)とのことでした。

凡その話はこの程度の事ですが、菊池城の鼓楼や古代九州王朝との関係まで飛躍した憶測は、もろくも潰え去ってしまったのでした。

しかし、フィールド・ワークとはこのような失敗の連続、積み重ねであることから、最低でも、今後のための教訓と記録にはなったのではないかと思います。

期待させて申し訳ありませんでした。通常、戦記、戦史は良く読まれますが、軍隊の日常や兵隊の生活といった側面までは目が向けられません。

言わば、「兵隊民俗学」、「軍隊民俗誌」といったジャンルが望まれますが、一般受けはしないため、まず成立はしないでしょう。

飛行場であったため現地は平らですが、高速道路周辺は道路を潜らせる必要があることから、その一帯については基盤が一部切り取られ下げられています。

また、八角形のために不必要に交差点の数が増え、単なる農地としても便利とは言い難い感じがします。

特に、車で移動することを考えると、交差点の形状や見通しの悪さから(八角形の形状から見通しの効かない交差点が続発する)非常に危険なものになっています。


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時代がつくった八角形の島―sci-tech世界地図(5)その2

愛知・老津の海上に昭和10年代、ほぼ八角形の島が作られました。人々はこの島を「大崎島」と名付けました。
このめずらしい島の形は、昭和初期という時代と大きく関係しています。
島がつくられた理由は、軍事施設をここに置くためでした。島と陸地を結ぶ長い橋が架けられているのも地図から見てとれます。
軍用施設と多角形の関係では、五角形が思い浮かびます。どの方角から敵に攻められたときも、すぐに応戦できる多角形は五角形といわれています。実際、江戸幕府が北方警備のために函館に建てた五稜郭も、米国の国防総省ペンタゴンも、五角形をしています。


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いっぽう大崎島は八角形。これはこの島に、軍事施設として飛行機の滑走路がつくられたことと関係しています。戦争が始まって2年後の1943年(昭和18年)、ここに海軍航空隊が開かれました。
民間の中型飛行場であれば、地形的な理由なければ滑走路2本を、東西や南北など同じ方角で並べて置くことができます。
いっぽう、この軍用飛行場では滑走路が東西、南北、そして斜めに3本走っています。いついかなる方角へも軍機が飛び立つこと、そして埋め立て土の量が少なくて済むこと、この両方を考えて、島のかたちを八角形になったのでしょう。全方位対応という点では円形も考えられますが、土木技術としては円形よりも八角形のほうが簡単のようです。
さて、戦争で日本が敗れると、当然この島の軍用飛行場としての役割は終わります。その後、この島は、大きな農地となりかわりました。
そして、行動成長期の昭和30年代になると、八角形の大崎島自体が埋め立てられて陸地の一部へとなっていきます。「国土地理院25000:1『老津』」では、ここの土地に八角形の島があったことは感じられません。臨海地域の埋立地によくあるように、この土地も吉野石膏、花王、日本電装、カナサシ、トビー工業といった企業の工場施設が建てられています。
飛行場の痕跡は、いまも探せばどこかで見つかるのでしょうか。(了)

科学技術のアネクドートより



豊橋海軍飛行場

(戦前・戦中)

豊橋海軍航空基地

 海軍は豊橋市大崎町の東側の三河湾に海上航空基地を建設することとした。ここを選んだ理由は、
 ● 冬季北西季節風が強く着陸に好条件
 ● 三河湾を取り巻く山々が低く、飛行機の離着陸に都合がよい
 ● 飛行機関連機材の海上輸送が利く
 ● 愛知は航空機工業が発達しているので、不足部品の調達に便利
等によるものであった。

 大津島・次島・平島にわたる一帯、総面積約七十万坪の海面を埋め立て造成し、五年有余の年月と多額の費用と労力を費やして完成した豊橋海軍航空基地は昭和十八年四月に開隊の運びとなった。

 その敷地の基本形は正八角形とユニークで、そこに長さ千五百メートル・幅百メートルの主滑走路三本が対称的に建設され、その間に長さ千メートルと八百メートルの副滑走路も追加された。この島の東北部分に張り出しを設けて管理・居住地区とした。まさに日本海軍が東洋に誇る最新鋭の航空基地であった。ここと真東の大崎町との間は、海軍橋と呼ばれる長さ約六百メートルの橋で結ばれた。海上飛行場としては長崎空港に先んじて、我が国最初に建設されたことは特筆されよう。

 ここに最初にやってきたのは台南航空隊として太平洋戦争緒戦に大活躍した零戦二五一空であった。その後、対潜哨戒、B-29迎撃、夜間飛行と戦技訓練そして特攻と変遷を重ねつつ終戦を迎え、僅か二年四ヶ月の短い生命を終わる。

 戦後、この島で製塩業を営んだり、滑走路の間に田畑を耕したりしたが、工場団地として新たに大々的な造成が行われ、特徴ある島の形状は消え滑走路も取り除かれて、基地の面影はことごとく消滅した。

 豊鉄バスを終点の大崎で降り、大崎小学校北交差点から真西に延びる道路を行くと、平嶋橋を渡る。ここで人工島・大崎島に入り、地名は明海町となる。最初の信号交差点「海軍橋」は、私が目にした唯一の過去の痕跡である。近藤正典著「大崎島」(昭和五十二年刊)に、基地建設の無事を祈念して「平島神社」を建立したとあるが、遂に見出せなかった。

 この道路の突き当たりがトピー工業の工場正門で、ここまで海軍橋が来ていたと見られる。ここから南下し、中央分離帯のある道路を西の海岸端まで歩いてみたが、両側は大きな工場の敷地が続くばかりで無味乾燥、この島の前身を思い起こさせるものは何もない。更にその沖に巨大な人工島があり、この海上一帯に造成された工業団地の規模の雄大さに驚かされる。地方行政と企業はこの島の過去に何等注意を払うことなく、ひたすら高度成長の道を進んで行ったのであろう。

この文は116-8 のご好意で転載いたしました。

当方は「豊橋海軍飛行場」からの引用、従って、「史跡探訪」からの孫引きになります。

以下、google map から、一部形が崩れていますが、勿論、お分かりになりますよね。

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