野猿街道にて。 | 走ることについて語るときに僕の書くブログ

走ることについて語るときに僕の書くブログ

タイトルの通り。
ワタナべの走った記録です。時折、バスケット有。タイトルはもちろん村上春樹さんのエッセイのパクリ。

土曜日 昼。



思い出は美しい。、とよく言われる。

…違うんじゃないか。


過去は美しい。しかし思い出は醜いんじゃないか?
得てして過去と思い出とを混在してしまい、思い出が美しいと誤認してしまうんじゃないか。

思い出は醜い。過去が美しいだけだ。


思い出と過去の違いもわからぬまま、、、その時、そんなふうな思いつきがあった。







かるた会場から聖蹟桜ヶ丘駅に移動。

夜は立川でコッコさん壮行会がある。立川駅まで走ろうとゆうプラン。

聖蹟桜ケ丘から野猿峠で下柚木から南陽台に登り、平山城祉公園を抜けて浅川と多摩川を渡って立川駅。
だいたい20数キロ。


もともとこのコースを機会があればジョグしたいと思っていた。
おりしもコッコさんの壮行会が立川で開かれるとのことなのでラッキー。



コースの南陽台付近に10代半ば、四年近く住んでいた。
いま数えてみてたった四年だったことに驚く。、、だから、たぶん、それなりに、「濃い多感なお年頃」だったんだねえ。

image 

なので、こうゆうなんでもない交差点に唐突に妙な「多感」がよみがえってびっくりする。
※それを撮影しちゃうのも恥ずかしい。笑



多感さはたいてい当時の不器用で嫌な記憶をつれて来る。
不愉快で顔を伏せてしまうが、それだとやりきれないのでせめて美しいことにしとこ、と美化を試みる。

けど、過去を正当化するのもむなしい。不愉快だったことは不愉快なこと、としてキチンと記憶していてあげたくなる。。。じゃないと、不愉快なことの延長線上にいる自分を意識してしまうから。

過去の不愉快なことが由来していまの自分がいる。
その自分の今はどうなんだ?

しあわせなのか、満足なのか?

そおゆう路地に入るとろくなことがないことをよく知っている。


だから、過去の因果をきっぱり切り離してしまう。
眼をすがめて、遠いもの、いまの自分に関係ないこと、として眺めてみる。、美しい。



こちらが過去をどう感じようが過去は変わることがない。ぜんぜん動じない。
この「多感交差点」で判断したことがその場では正しかったと分かる。



そんなことを感じていたら、

「思い出は醜い。過去が美しいだけだ。」

っつう思いつきが降りてきた。



過去から伸びている延長線上に、今のおいらはいるのではない。
・・・そう思いつづけるのは簡単でもない。
「いまをいきる」ことのむつかしさにも通じるのかも、、、しんない。


image 

平山城址公園付近から浅川方面を見下ろす。


何も変わっていない。
景色だけでなく、心のありようもそうありたいと思うゼイタク。