Parade's End: Adapted for Television | First Chance to See...

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 フォード・マドックス・フォードの長編小説 Parade's End がテレビ・ドラマ化され、トム・ストッパードが書いた脚本が出版された。

First Chance to See...-Parade's End: Adapted for Television

 正直言って、ほとんどジャケ買い。でも、動機はどうあれ買っちゃったからには、テレビドラマを観た時の記憶が鮮明に残っているうちに、なるべく急いで読むしかない。

 テレビドラマ Parade's End は全5話構成で、1話あたり約60分。ということは、ドラマを最初から最後まで観るには約5時間かかる。普通、朗読するより黙読するほうが早いから、5時間分のドラマの脚本を読むのにかかる時間は5時間以下になるはずだが、いかんせん英語なので、5時間以下どころか2倍の時間はかかる、と見積もっても約10時間。

 しかし実際は、2倍どころか3倍くらい時間がかかった。 おまけに、それだけ時間をかけても完璧に理解できた気がしないから情けない。

 それでも、脚本を読み終えてから、もう一度iPlayerに再放送分のデータが残っていた1話から4話までを観てみたら、今度はさすがに分かりやすかった。というか、いかに自分がこれまで会話の意味を理解できていなかったかよく分かった(うっ)。
 テレビドラマを観ていて私が一番よく分からなかったのが、クリストファーの兄マークが結婚しない理由だったのだが(長男のあなたこそ、さっさと結婚して跡継ぎを作れと父親からきつくプレッシャーをかけられる立場だったのでは?)、そこのところも脚本を読んでようやく判明——あ、誤解しないでね、勿論ちゃんとドラマでも描かれてたんだけど、私が意味を掴めてなかっただけの話。

 と、いろいろ情けない有様ではあるんだが、ただまあ何というか、ストッパードに限らずテレビドラマの脚本というものをきちんと読むのはこれが初めてだったせいもあって、単にストーリーの理解が深まったというだけでなく、テキストとして書かれた場面や台詞を解釈して映像化するとは具体的にはどういうことなのか、「分かった」とは言えないまでも、「垣間見ることができた」くらいは言ってもいいんじゃないかと思う。なるほど、同じ脚本でも、舞台の脚本を読むのとは随分違うものなんだね。

 では、ここから先は、ネタバレな感想を書きたいと思います。ネタバレがイヤな方は、ここでお止めください。ネタバレのない程度にあらすじを知りたいという方は、過去ログへどうぞ。こちらは、少々不正確な内容も含まれるものの、ネタバレの心配だけはありません。

 ということで——









 ネタバレがイヤだという方は、もういらっしゃいませんね? 
 それでは遠慮なく。

 第1話から第5話まで観て、私が一番胸にこたえたのは第3話だった。
 そりゃ、第2話冒頭で、シルヴィアがクリストファーに彼の母親の死を告げるシーンは強烈だった。それに続いて、シルヴィアが車の窓から放り投げたコンパクトをクリストファーが拾いに行くシーンもこれまた強烈で、思わず「これって一体何の恥辱プレイなのよ、誰の母親が死んだと思ってるのよ」と叫びそうになった。
 でも、シルヴィアが強烈なことをやらかしてクリストファーが泣きそうな思いをするのは、ある意味毎度のことである。それにひきかえ、第3話でクリストファーに泣きそうな思いをさせるのは、クリストファーのたった一人の友人、ヴィンセントだ。第1話からずっと、ヴィンセントが困った時にはクリストファーは手も金も迷わず差し出してきたというのに、その挙げ句がこの仕打ち。だからと言って、ヴィンセントが自分を裏切ったの何のと罵るのは間違っている、とクリストファーは思っている(多分)。それだけに、クリストファーがヴィンセントに「おめでとう」と言うシーンは、観ていて本当に辛かった。

 その上での第4話。将軍はあなたの友人だろう、何とかしてもらえないのか、と言われたクリストファーが、"I haven't a friend in the world." (p. 235) と答えてたのにも、思いっきり胸が痛んだ。ううう。シャーロックが「友達なんかいない」と言うのとは、訳が違う(←そういう問題?)。

 第4話で強烈と言えば、ルーアンのホテルで見事クリストファーとの再会を果たしたシルヴィアが、クリストファーに「(子供の)マイケルはどうしてる? 手紙を書いてくれないんだが」と訊かれた時に、"He hardly knows you" (p. 259) とばっさり切り捨てた時も、かなりキツかった。衝撃のあまり、私まで思わずよろめいたもんな。
 母性愛に乏しいシルヴィアとしては、そんなにひどいことを言ったつもりはないんだろう。それどころか、シルヴィアは自分で思っている以上にクリストファーを本気で愛していて、"I'm a woman desperately trying to get her husband back." (p.257) が本音の本音なんだろう。そんなシルヴィアの気持ちも分かるけどさ、でもほんと、どこまでも噛み合わない夫婦だよ。

 そして第5話。実は、私はジュリアン・バーンズが小説 Parade's End に寄せた序文を立ち読みしたため、クリストファーの屋敷に生えている古い大木、Groby Tree が切り倒されることをあらかじめ知っていた。それだけに、第4話でシルヴィアがクリストファーに向かって、「生きて帰ってこなかったら、あの木を切り倒すわよ」と脅した時には、「……ってことは、第5話でクリストファーは死んじゃうのか?!」と内心びびりまくっていたのだが、確かに木は無惨に切り倒されたものの、クリストファーは無事だったし、それどころか、象徴的な木がなくなったことでクリストファーはこれまで自分を束縛していたすべてのものから解放されることにもなった。怪我の功名とはまさにこのこと(ちょっと違うか)。

 クリストファーは、地位も財産もすべてを失った。でもその代わりに、本当の友人と本当の恋人を手に入れた。ラストシーン、家具も何かも一切取り払われたロンドンの住まいに、軍隊時代の仲間が三々五々集まってくる。戦友たちに、"Good old Tietjens!" と呼びかけられた時の、クリストファーの笑顔ったら!

 軍隊でも、クリストファーは決して最初からみんなと打ち解けていた訳ではない。それどころか、むしろ嫌い合っていたくらいなのに。でも、嘘も詭弁も通用しない生死を分ける戦場で、クリストファーの誠実さはようやく理解され、本当の信頼を得るに至った。そんな仲間に背中を押される形で、クリストファーはヴァレンタインの手を取る……。

 いやもうほんと、良かったねえええ(涙)。

 ——その他に、脚本を読んで気になったこと/気付いたこと。

 第1話のラストで、クリストファーとシルヴィアが夜明けに馬車に乗ってて、二人でヒバリがどうのナイチンゲールがどうの、と話している場面で、私は「さすが、田舎暮らしの知識人ともなると、ヒバリとナイチンゲールの声の違いも分かるのか~」と思って観てたけど、あのシーンはそういう意味だけではなく、クリストファーが「ロミオとジュリエット」の台詞を引用したら、引用だと分かったシルヴィアもちゃんと後に続いた、ということでもあったのか……。脚本を読んでなかったら一生気付かないままだったぞ、私。

 同じく第1話、イーディスが初めて登場するシーンのト書きに、"Pre-Raphaelite beauty"(p. 53) とある。言われてみればそういう感じもするけれど、でもラファエル前派っぽいと言えば、第5話、Grobyの屋敷のベッドの中で、クリストファーを迎えた時のシルヴィアのほうが、ロセッティの絵画っぽい気がした。赤毛と白百合の組み合わせから、そういう連想をしたのかも。よく分からんけど。

 あと、これはドラマの内容とは直接関係はないけれど、Parade's End: Adapted for Television にはトム・ストッパード自身による序文がついていて、これを読むとドラマの完成にこぎつけるまでには紆余曲折いろいろあったことがよく分かっておもしろかった。
 ストッパードほどの脚本家でも、ドラマの制作費に気を配ったりするとは意外。おまけに、BBC単独で制作するのが難しくて、提携に乗り気になってくれたアメリカのテレビ製作会社HBOのことを、"Mr Darcy"と書く辺りも、何だかちょっとかわいらしい。
 その昔、『バトル・オブ・ブラジル』という、映画『未来世紀ブラジル』の製作の裏側を描いたノンフィクションを読んだ。この本に出てくる、『未来世紀ブラジル』の脚本家としてのストッパードは、高名な脚本家としてそれなりにプライドも高く、監督ギリアムとの話し合いにもなかなか応じてくれない人、という印象だったんだけど、Parade's End: Adapted for Television の序文を読んでみると、私が勝手に間違ったイメージを抱いていたような気がする。
 ほんの数ヶ月前に読んだ、俳優アントニー・シャーの自伝 Beside Myself にも、ストッパードはちょっとだけ登場してて、"One of the shyest and most serious people I've ever met" と描かれている。Parade's End: Adapted for Television の序文だけ読んで言うのもなんだけど、ほんと、まさにそんな感じだ——勿論、これまた私の勝手なイメージに過ぎないけどね。

 あと、この序文によると、ヴァレンタインがナショナル・ギャラリーでベラスケスの「鏡のヴィーナス」を見るシーンや、ヴァレンタインが、生徒が隠し持っていた Married Love を盗み読み(?)するシーンは、原作小説にはないそうな。ストッパードとしては、実際にあった出来事をフィクションに盛り込むことで、その時代を特定する効果を出したかったらしいが、どちらも単なるエピソードで終わらず、きちんとストーリーの中で生かされていたと思う。序文には、「時々、原作小説に元からあったのか、はたまた自分の頭で作り出したのか分からなくなった」とか何とか書かれてたけど、むべなるかなだ。

 原作小説にあったのか、それともストッパードが創作したのか。出来が良ければどちらでもいいと言えばいいんだけど、一カ所だけ、どちらなのかはっきり知りたいシーンがある。それが、第3話で、ヴァレンタインが自宅の裏庭に設置されたトイレ(だよね? 脚本では 'privy' と書かれているけど)に入るシーン。いまだかつて、屋外トイレなぞという代物が、こんなにもロマンチックに描かれたことがあったでしょうか!?