大湯鉄道物語 大湯鉄道発起者 立川甬 鉄道一筋の人生と地域愛 | 由布市商工会 挾間支所のブログ

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大湯鉄道物語 大湯鉄道発起者 立川甬 鉄道一筋の人生と地域愛 


湯布院町史には、大湯鉄道構想を起案した中心人物として紹介されています

「青年時代、大志を抱いて単身上京し、当時全国の鉄道事業にかかわり
鉄道王とも呼ばれていた雨宮敬次郎氏の書生になった。
勉学に励み、雨宮氏の信頼を得て米国に派遣されて土木学を習得し、
日本の鉄道建設を手がけた立志伝中の人物である。
幼少期からの夢である郷里 由布院までの鉄道建設を実現すべく帰郷。
佐藤庫喜氏らとともに沿線となる町村で説明会を開き、大湯鉄道の設立を推進した。」

以前の記事はこちら→大湯鉄道役員 立川甬

大湯鉄道株式会社の役員の中でも、他の公人や県財界人と違い
立川さん個人の詳しい記述はあまりありません

謎の多い立川とおる氏の経歴を追ってみたいと思います

立川氏墓碑
埼玉県草加市にある、立川甬さんの立川家のお墓です

墓誌をご紹介します(原文まま)
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 甬
 一千住馬車鐡道株式會社監督
 二東武鉄道株式會社創立事務
 三東京市日比谷公園造榮監督
 四熱海鐡道株式會社支配人
 五濱松鐡道株式會社支配人
 六電気鐡道株式會社専務主事
 七大湯鐡道株式會社支配人
  以上明治丗三年自三十八年在任ス
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立川さんの輝かしい鉄道員としての経歴です

関連の鉄道事項と年表に起こしてみました
年代を特定する為の研究資料です
立川氏 経歴年表


1858年(安政5年3月13日)、延岡藩領速見郡平村に生まれる

 年不明 上京

1890年(明治23年)32歳、千住馬車鉄道株式会社監督 ※1

1895年(明治28)37歳、東武鉄道創立事務 ※2

1902年(明治35年)44歳、東京市日比谷公園造営監督 ※3

1906年(明治39年)48歳、熱海鉄道株式会社支配人 ※4

1907年(明治40年)49歳、濱松鉄道株式会社支配人 ※5

1909年(明治42年)51歳、江嶋電気鉄道専務主事 ※6

1911年(明治44年)53歳、大湯鉄道発起 ※7

1912年(明治45(大正元年))54歳、大湯鉄道、軽便鉄道運転許可。大分帰郷 ※8

1913年(大正2年)55歳、大湯鉄道株式会社設立、取締役

1915年(大正4年)57歳、大湯鉄道開業、専務取締役 ※9

1922年(大正11年)64歳、12月1日、大湯鉄道国有化 ※10

1925年(大正14年)67歳、7月、生誕地に立川甬先祖之碑を建てる 

1928年(昭和3年)70歳、退職、東京日比谷に帰る ※11

1941年(昭和16年)83歳、10月17日没

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※1 墓碑では明治三十三年自とあるがその後の経歴から見て明治二十三年の誤植と判断する
   監督の地位について、駅や駅間の軌道管理責任者、駅長クラスと想定する

※2 東武鉄道の創立にかかわるならば明治28年前後か
   千住馬車鉄道からは多くの技師が東武鉄道に移籍し、建設に従事したようである

※3 おそらく雨宮氏のもと東京市街鉄道、日比谷公園駅の造営監督
   東京市営の日比谷公園自体の造営に関わることは考えにくい、ならば日比谷公園駅。 

※4、※5 熱海鉄道、濱松鉄道とも会社変遷期でここしかないと考える。
   逆に言えば、立川さんが関わる時期には、会社の創立や買収が続く。
   あるいは立川さんの鉄道従事者としてもっとも特徴的なものかもしれない
   湯布院町史の横浜鉄道は誤りである   
   支配人の地位について、現在でも電力会社で支社長、支店長を支配人と呼ぶ
   改正前商法において支配人の範囲は広く、専務取締役や事業部長などまで支配人と呼ぶことがある

※6 電気鉄道とは?湯布院町史では江嶋電気鉄道とある。雨宮氏が社長であり、その後横浜電気に買収させている

※7 由布院へ鉄道をと夢を抱いたにせよ、帰郷にいたる原因は何か?
   雨宮氏の死去か?
   
※8 大湯鉄道を発起し、郷里大分の同志に協力を要請した。特に地元では佐藤庫喜衆議院議員が活躍した。軽便鉄道運転申請は、立川さんが東京で事務を行っている。免許許可後、大分に帰郷。

※9 大湯鉄道株式会社では100株の大株主であり、役職では専務取締役についていた
   創立時の役員リスト

※10 大正11年12月1日をもって大湯鉄道職員は、国鉄職員として引き継がれる
    小野駿一社長 最後の訓示

※11 墓誌の「38年在任す」から昭和3年と考える。昭和4年2月15日まで、大湯線の一部旅客事務は元大湯鉄道駅舎で行っており、会社清算事務など職員として残ったことも考えられる

家紋は三つ葉葵です。出生地にある天満社と関係があるのかもしれませんが不明です
立川姓は、由布院においてはわりと多い姓ですが、現在平地区には立川姓はありません
埼玉県草加市にお墓があるのは、奥様の実家が草加市だそうです
東京での住居は、日比谷にあったということです

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立川さんについて考えるとき、いつも思います
同じ鉄道事業とはいえ、それまでのキャリアをすて、
54歳で新たな鉄道事業を立上げ、70歳まで従事する。
それも生まれ育ったふるさとの発展のために
昔見た写真ではたいへんおしゃれな方だったと、
お孫さんがおっしゃっていました。
明治以降、日本の独立と発展を支えた先人達の逞しさに
現代のわれわれも負けてはおられません


情報をお持ちの方がおられましたら、ご教授ください


PS
由布院に小さな立川家の碑があります。
立川さんのお孫様は、養女で由布院にはご縁の無い方ですが
これまでずっと、この小さな碑を手放さずま守ってこられました
そして、東京からたびたびこれない立川様に代わって
これまでずっと地元大分で、無償でこの碑を手入れし守ってきた方が
代々いらっしゃいます。
許可いただいていないのであまり詳しくは申せませんが
元県職の方で、たまたま道路拡幅でご縁があっただけのことで
立川さんの業績等は、久大線に関わった人ということを知ってるくらいで
山を越えて、年に数回、草取りや掃除をしながら、先代から引継ぎ30年以上
これまでずっとお世話をしてこられているそうです
なんというんですかね
残るべきものは、そこに守る人がいて、やっぱり残るし
うわべにでてこない100年の歴史は深い
皆様の町や地域の中にも実はもっといろいろな
しずかに、深く、そして美しく輝く宝石のような歴史がつまっているのではないでしょう