かつて挾間町誕生以前。
挾間町域には、谷村・石城川村・由布川村・挾間村の4村がありました。
それに当初挾間町に合併するはずだった賀来村をあわせて、挾間村を中心とした五村連合が存在していました。
この5村では、五村組合立挾間尋常高等小学校を設立するなど郷土の発展と次代の人材育成に並々ならぬ熱意と情熱を注いできました。
わたしは直接当時の人の話など、当然聞いたことはありません。
生まれるずっとずっと前ですから。
しかし以前、挾間町長だった方から聞いた話は、街づくり人づくりへの熱い思いとともに記憶に残っています。
「交通の要所であるこの町を、偉人烈士のいでしこの町を、郡都にする」
大分郡の中心として挾間を発展させる。
幼い私にはなんのことじゃらと思っていましたが。
昔は大分郡は、鶴崎のむこうまで大分郡で広かった。
逆に由布院は速見郡でした。
江戸時代が終わり、明治になり行政単位の郡が復活すると大分郡には郡長が設置されます。
その大分郡長の命令で、この5村に各村の様子を調べ記録に残すよう指示が出されます。
そこで各村は村の記録として、明治四十一年(1908年)「村是」を編集しました。
賀来村は、その後挾間町には合併しなかったのでありませんが、4村の「村是」は町の教育委員会に揃って保管されていました。
その村是の編纂にあたり立てられた方針です。
「非を排し、是を以って将来の発展を期す」
約すと…
無粋なので止めときます。
日本語ってなんて美しいのでしょう