慶応三年(1867年)10月14日、第15代将軍徳川慶喜が大政を奉還。翌四年九月には改元され明治の時代となりました。
戊辰戦争が終わった明治二年六月版籍奉還が行われ、それまでの藩主は改めて藩知事に任命されます。
そんな明治初期は目まぐるしく社会が変転し、大分県域各地では農民一揆が多発しています。
二年七月には直入郡の一揆を皮切りに十一月宇佐郡・国東郡、三年十一月には日田・玖珠両郡で竹槍一揆が次々に起こります。
その竹槍一揆鎮圧直後の十二月、挾間と庄内の農民が蜂起する庄内谷騒擾が起こります。
挾間庄内一揆の理由は、熊本藩知事細川護久が藩政改革を行い、年間の年貢の三分の一にも相当する大減税を行い、肥後領である野津原や挾間町谷地区のみがその恩恵に浴したからです。
肥後領に接する府内領の農民が、税の免除を要求するのも当然でしょう。
挾間町朴木に集結した農民は竹槍で武装し、田のワラ積みに火をつけながら上市、下市、野田を通り、途中村々では参加しないと家に火をつけると脅しながら勢力を増し大道峠を越えて来ました。
この時、いち早く府内城に迫った一団は城内より銃砲撃されています。
いよいよ市街地に乱入しようという時、現場の担当官が一時的な権限で農民の要求を聞き入れます。
それで農民は解散しましたが、直ちに首謀者が逮捕され、農民の要求は破棄されました。
しかし一時的とはいえ、藩が年貢の減額を認めたことはさらに周辺地域に影響をあたえ、その後別府、庄内、直入、速見郡、山香へと蜂起が波及していきます。
この庄内谷騒擾は当時、中郷と呼ばれた挾間地域・平横瀬村・わさだ村といった大分郡の村々が起こした騒乱ですので中郷一揆とも言われています。