大分郡はなぜ大分郡? | 由布市商工会 挾間支所のブログ

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私の地元、大分県由布市挾間町は、2005年10月1日に大分郡の3町(挾間町、庄内町、湯布院町)が合併し由布市となりました。
よって2005年9月30日、大分郡は消滅しました。
現在は地理的区分としてのみ使われる郡ですが、かつては行政単位としての郡があり、地域の古い歴史の中に今も生きています。
制度は違いますが、この郡の歴史は古く制定は奈良時代の大宝律令(701年)までさかのぼります。

6世紀ごろの古墳時代、古事記・日本書紀によると、大和朝廷の地方統治体制としておかれた西海道(九州)豊後国大分国造(おおきたのくにのみやつこ)に任命された大分君一族が登場します。
この大分君は、神武天皇の子を祖とする皇族の系譜に連ねる地方豪族として名前があげられています。
このころには大和政権の支配がこの大分にも及んでいたのでしょう。

その後、大化の改新前後には地方行政組織の整備が進み、国造の勢力範囲を基準に各地に評が設置され、このあたりは大分評となります。

さらに奈良時代の大宝律令による律令体制で、大分評は大分郡と改称されます。
農民は公地公民制により戸籍に登録され口分田を受け、租税や兵役などを負担しなければならなくなりました。
そして公民を支配するために国・郡・郷という行政組織が整備され、国司・郡司・郷司という統治者が置かれています。
豊後国大分郡は、阿南、稙田、津守、荏隈、判太、跡部、笠租、笠和、神前の9郷があったと記されていますので、明治初期の大分郡とほぼ同等の地域と思われます。

こののち、この行政組織「国・郡・郷」は平安時代の荘園制や鎌倉室町時代の御家人制、武士政権の守護職によって機能しなくなります。
江戸幕府の体制では地域区分的なものとしてしか扱われなくなりました。