TS-1+アバスチン療法6クール目の2日目、体調はかなり良好です。ワンコ仲間とお昼を食べたり買い物をしたり。その後、約2週間ぶりのスポーツクラブにも行きました。

さて、今日はめずらしくちょっと堅苦しいタイトルのブログです。先日の香川大学の今滝先生のエントリーでも、それよりずっと前のSho先生のエントリーでも、フランクルの「夜と霧」が引用されていました。

恥ずかしながらこの歳になるまで読んだことがなかったので、初めて読んでみました。がん患者の僕にとって、心に刺さる言葉がたくさん書かれていて涙が出ました。おそらく罹患していなければ読もうとも思わなかったかもしれませんし、読んでもまったく別な感想を持った可能性もあります。人生とか運命って、それだけで面白いですね。

いくつか、自分のメモの意味も含めて心に残った個所を記しておきます。尚、僕が読んだのは「夜と霧」の新版です。

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●およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

●人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。

●もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることにほかならない。

●このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生き続けるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

●わたしたちひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては最期の時が近づいている今このとき、だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、とわたしは語った。だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。生者かもしれないし、死者かもしれない。あるいは神かもしれない。そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと願っているのだ、と。

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