こんばんは。原田綾子です。


カミングアウト記事を書き出してから

ブログの読者さんがグーンと増え、

FBのフォローや友人申請も一気に増えました。


個人的な話にすぎないのに

読んで下さってありがとうございます。


しかも暗い話題なのに、反響が大きくて

びっくりしています。^^;




こうして自分のことを書くのは、

かなり勇気が要るのですが

たくさんのメッセージをいただいており

今日も勇気を出して書いてみますので(笑)

よかったらお読み下さい。


※明るく楽しい話ではないのでご了承ください。笑

 


・・・・・・・・・・・・・



小学生からの摂食障害

ガリガリにやせ細り、朝会では倒れるタイプ。


病弱で神経質。


遅刻早退あたりまえ、休みがち。

いつもどこか調子悪い。


高学年になると

それプラス、息苦しさに苦しむことに。


当時は意味などわからず。

酸素が足りない~~!!

と、ハァハァしていましたが、それは過呼吸。


そういうときはビニル袋を口に当て

息をすることを知るのは

ずっと後になってからでした。汗




小学校高学年になると

自分はダメな存在で、罰せられるべきだ

と思うようになりました。

異常ですね・・・


勉強はよくできる子どもで優等生でした。


目立ちたくないのに

クラスのみんなに推薦されて

学級委員になってしまうタイプでした。


先生にも

「綾子さんはお手本だから・・・」

と言われてプレッシャーでした。



がんばらなきゃいけない。

みんなの期待に応えなきゃ行けない。

先生のためにも、親のためにも。


字を書けば賞を取り

絵も作文も賞をとり

成績もよかった。


でも何故か

自分はダメだ、

もっともっと・・・
と、

そうやって生きていた子ども時代でした。





父は単身赴任で不在でした。

わたしは一人っ子。


生まれた時から虚弱で「かん」が強く

眉間に青筋を立てているような子どもだったそうです。


寝付きが悪く、神経質な子。


寝ない子、ミルクを飲まない子で

母もとても苦労したそうです。


単身赴任中の父は

盆暮れ正月の無い仕事で

東京の本社に帰ってきたのは

わたしが高校生(大学?)になってから。


父との記憶が少ないわたし。

だから年頃になって好きになるのは

いつも年上の人でした。


お兄さん的存在の人を

無意識に選んでしまうのです。


(結婚したのは年下のだんなさまですが・・・笑)





夜もなかなか寝付けない子で

(今はすぐに寝てしまうけどね~^^;)

夜、がさごそ起きて

ランドセルの中身を何度も確認していました。


何度も何度も確認してしまう。


家中の鍵閉まりの確認もしたり

物音がすると、怖くて怖くて

また鍵のチェックをしに行くのです。


怖くても、怖いと言ってはいけない。

母を心配させてしまうから。


頭痛持ちだったのですが、

頭痛薬をいつもポッケにしのばせて

母にわからないように飲んでいました。


あとで(大学で教育学を学ぶうちに)

気づくのです。


わたしは強迫神経症だったのだ、と・・・。



さまざまな体の不調も

いろんな病院にも行きましたが

原因不明、とたらいまわしにされ、

心のクリニックに行ったのは

高校生になってからでした。


カウンセリングを受けても

原因追及のカウンセリングなので

よくなるわけがありませんでした。


あれが悪い、これがよくない

と言われても

もう子ども時代に戻ることもできないし

どうすることもできません。


人を責め、自分を責め

負のスパイラルにハマリ

病院に担ぎ込まれる始末。






中学の3年間は

楽しくて楽しくて仕方ない3年間で

子ども時代唯一

中学校時代は元気な時代でした。


地元の進学校に進みましたが

高校にはあまり馴染めませんでした。




高校1年から友だちたちは赤本を買って

勉強をしていました。


早慶でないと、

とか

東大を目指している友人も

バリバリ勉強していました。


聡明で元気な女の子ばかり。


わたしは、その頃

なにもかも疲れていました。


完全に、燃え尽きていました。


今までのガンバリ人生に・・・。






勉強も、なんのためにやってきたのか

これからなんのためにやっているのか

わからなくなってしまったのです。


気づいたら自分はなにがしたいのか

何が好きなのか、わからなくなっていました。


自分で考え判断し行動するのではなく

いつも他者の評価を気にして生きていました。


自分が無いのです。


そんなもの、子ども時代に

どこかに置いてきてしまった。


過呼吸と拒食をしながら

置いてきたのです。





それまでは、

ものすごく勉強をしていました。

進学塾に通っていい成績を取り

優越感にひたり、

友だちに抜かれれば劣等感を持ち・・・




いい成績を取る自分は○

そうでない自分は×


言いたいことをガマンして

大人の言うことに従う自分は○

言うことをきかない自分は×


そうやって条件付けて生きていました。




だから・・・ 

だから


アドラー心理学の「勇気づけ」に出逢った時

衝撃だったのです。


え??

ほめるのではなく勇気づける?


と。





話を戻して・・・

各学校でトップクラスの子が500人も集まる高校では

1番なんてとれるわけがありません。


猛勉強しても

35番しかとれなかったときは

自分はダメな存在なんだ・・・と

無力感にさいなまれていきました。


今までできていたことだったのに、なぜできない!!


なにがいけない?

頭が悪いのか。




今考えると、充分よくやっていたと

思うのですが・・・^^;


完璧主義だったのです。


○か、×か、

白か、黒か。

よいか、悪いか。


頭が固く極端。




そして、もう勝てる見込みのない競争から

降りることを決めたのです。

わたしは何もしない、と。

(無気力)


でも、そんな自分も

逃げたような気がして

また自分を嫌いになるのでした。



そして

高1の1学期の終業式で通知表をもらい

帰宅した瞬間

家の前で動けなくなってしまったのです。


ものすごい吐き気に襲われ

暑い日射しの中、立ちすくみ

母が心配していたのを覚えています。


体に力が入らないのです。


あぁ、よかった。

わたしはよくがんばった。


もうこれでわたしは休める、と。





それから夏休みの間

一歩も外に出ることなく

ゴハンが食べられなくなり、寝込んでしまいました。


学校も休んでばかり。


担任が心配してわたしの家にも来ました。


ガリガリにやせ細り

わたしは立っているのがやっとでした。





そんな時に、わたしの大好きだった

尾崎豊が亡くなりました。


ショックで余計落ち込みました。


心のよりどころだったのに・・・。




雨の降る5月のある日

教室から窓の外ばかり見ていました。


今日は尾崎の追悼式の日。


行きたいな・・・

でも、行けないよね・・・


でも、行きたい!!




気づいたら私は、

荷物をまとめて学校を飛び出していました。


護国寺の駅を降りて

傘も差さずに、

ずぶ濡れになりながら花を抱え、

長蛇の列に並びました。

薬を飲んで、体力を振り絞って。


みんな叫んでいました。

私も泣きながら叫んでいました。





そしてまた不安定な日々。

それから暫くして

わたしは渋谷のハンズのナイフ売り場で

いちばん切れそうなナイフを

いつまでも眺めていました。


アブナイ、アブナイ・・・^^;


死ななくてよかった。笑



ここには書けないことも

いろいろあって

かなり

精神が参っていました。

・・・・・・・・・・・




なんのために学校へ行くのか


なんのために勉強をするのか


これからどうしていくのか


わたしはどこに向かっていくのか



そんなことばかり考えて

心療内科に通いながら

ウツの薬を飲んでいました。


友だち達は華やかに

青春時代を謳歌しているというのに

わたしは何をやってんだか。


音楽と読書にのめり込んでいました。





高3になり、受験が近づき

わたしは大学に行かないと言いました。


生徒全員が大学進学するのに

たった一人、大学に行かないと言ったのです。


ボロボロだったわたしをみて

親はそれでもいいと言ってくれました。


そして私は専門学校を受験したのです。


そこに進むつもりでした。


そこで、好きなことを見つけようと

思ったから。




でも、周りに説得されて

大学を受験することにしました。


受験案内(学校案内)を

なんとなく開いた頁には

教員養成課程の文字がありました。


小さい頃憧れていた先生。

万が一、数%でも

また夢を追いかけることができるかもしれない、

ここにしよう!と思い受験し入学しました。





入学しても、心身不安定ですぐに休学。

引きこもっていました。

思うように体が動かないのです。


買い物でレジに並ぶのも

動悸が激しくなって息苦しくなっていました。


人が怖くなっていました。



そして
この頃、前に記事に書いた

小学校時代の恩師に再会し

復学を決めたのです。


入学式からやり直しました。


新しい自分になりたい、そう思っていました。




入学するまで知らなかったのですが

学費がとっても高いことで有名な学校でした。

そこで、出逢ったのが

大学時代ずっとつきあっていた彼氏です。



ここから前の記事

実はこんな私でした(カミングアウト)2~教師の夢をもう一度~

続きの話になります。


・・・・・・・・・


人を責め、自分を責め
恨み、辛みで生きていました。

病状は悪化するばかり。

医者からは、
教師になるのは絶望的と言われ
また泣きました。

「そりゃそうだよね、
こんな人間が
人を育てる立場になんてなれっこないよね。

わかってるよ。
でもどこかで信じているんだよ。

諦めたくないよ。
でも、こんな自分じゃ無理だよね。

どうしたらいいの!?

教師になれないなら
教育学部に通ってる意味なんてないじゃん!」

病院帰り、蒲田の駅で彼氏に大声で
泣きながら話したことを覚えています。

そしたら彼が
こう言ったのです。





「医者が1人そう言ったからって
オレはそうは思わないよ!

ぜったいになれるって。
諦めない限り。」

ニコニコして、そう言うのです。


そんな彼にわたしは

「教員なんて健康でないと無理でしょ!
体悪いし心もおかしいし・・・

それに教員採用試験は
体育の実技試験もいろいろあるじゃん!
そんなのできるわけないでしょ!!」

そう言うと


「じゃ、練習しようぜ!
今日からやるぞ!」

そう言って
泣いている私の手を引いて
近所の学校の校庭に行きました。

え??

とビックリしました。

い、今・・・????すぐ???( ̄□ ̄;)!!




「逆上がりできるか?」

そう聞かれて首を横に振る私。



もう夜になっていました。

ハタチ過ぎたわたしは
小学校時代を思い出しながら
夜の校庭で
鉄棒の練習をしていました。

あの頃できたのだから
またきっとできる・・・

そう信じて。
鉄棒なんて何年ぶり?

ぜんぜんできないけど
それでも、
絶対にできるようになるって信じて
と、彼に言われ、コツを教えてもらい
毎日鉄棒をしに
家の近くの中学校に行きました。

日が出ている明るいうちは恥ずかしいので
人がいない夜になってから。



家の前では縄跳びの練習。
(採用試験で持久力のテストがある)





プールにも通うようにしました。

少しずつ筋肉も付いてきて
体力をつけることに集中していたら
心身の状態もよくなってきて
薬を減らすことができるようになってきたのです。



その元カレとは別れて以来
どうしているのかしりませんが
ボロボロだった時代に支えてくれたことを
感謝しています。

器の大きな人でした。

(誤解のないように
だんなさんも大きな人ですよ。
・・・と言っておきます。笑)





そして、大学在学中に受験した
教員採用試験は・・・




合格せず、でした。^^;

(鉄棒、できるようになりました。笑)
前方指示回転も。後方はできませんでした^^;


現役時、埼玉県は受験者数1800人以上
合格者80人の狭き門だったのです。

最学卒業後、わたしは、
肢体不自由の児童の介助員として
期間限定で
小学校で勤務することになったのです。

辞めたあと、職を転々とする
先の見えない日々が続きました。

なかなか採用試験に受からず
教員になることを諦めかけたとき、
また私に勇気をくれる人に出逢ったのです。



~続く~

今年春、グアムにて
大雨のあとに出た虹。


今、土砂降りでも
ちゃぁ~んと光が射すんだなぁ(^-^)
きっとダイジョウブ♡





応援クリックありがとうございます!


にほんブログ村 子育てブログ 子育てアドバイザーへ  人気ブログランキングへ

にほんブログ村     人気ブログランキングへ





勇気づけの子育て・自分育て
株式会社HeartySmile  原田綾子

HeartySmileの講座

無料PDFテキスト 心豊かな自ら学ぶ子どもの育て方

無料メールレター 7日間毎朝届く勇気づけのメッセージ

まぐまぐ ほめるな危険「勇気づけの子育て法」

ラブレターお問い合わせはこちら

埼玉県富士見市 ふじみ野駅徒歩1分(池袋駅から急行25分)

昼間は母親向けセミナー、夜は小学生の塾をしています

生きる力が育つ「勇気づけ」国語塾HP

勇気づけの子育て・自分育てHeartySmile