岩槻市史 古代・中世史料編Ⅰ 古文書史料(下)』(1983年)の“年次未詳”より、太田資正関連の書状を抽出。

767
四月四日
北条氏康は、太田資正に同盟を結び、活動することを依頼する。
(弘治二年推定)

768
四月四日
上杉謙信は、羽生の木戸忠朝・重朝・菅原直則に、佐竹義重の同陣を急ぐべきことを太田資正父子に伝えさせたことを報ずる。
(天正二年推定)

769
四月五日
越後の北条芳林は、太田資正に謙信の越山を促すように依頼し、房州との連絡もできていることを報ずる。
(永禄八年推定)

772
四月五日
太田資正は、高野山清浄心院に、越後・甲州の同盟を伝え、源太政景の行動も報ずる。
御尊札拝披、畏入候、如毎年五種、被懸御意候、目出珍重不過之候、越・甲当無二被相談儀、老拙父子馳走致之候、一度源太為致本意、於武州、御用等申合度、念望迄候、態御樽銭、如嘉例進之候、乏憚入迄候、恐々謹言
四月五日 沙門道誉
謹上 清浄心院 御同宿中

776
四月八日
北条氏康は、正木弥五郎・源七郎両人に、常州大島台の合戦に、遠山・太田資正・結城衆ら三手に切り勝ったことを報ずる。
(弘治二年推定)

去五日未刻、於常州大島台遂一戦、得勝利、敵千余人討捕候、不思議之仕合、満足大慶、可為御同意候与令推察候、不慮之合戦故、総手者不合候、遠山・太田美濃守・結城衆以三手切勝候、恐々謹言
卯月八日
氏康
正木弥五郎殿

同源七郎殿

777
四月八日
織田信長は、太田資正・梶原政景父子に書状を送り、信長の直参になったことを賞し、滝川一益に属し、忠勤に励むよう命ずる。
(天正十年推定)

781
四月十二日
太田資正は、白川城主結城晴綱に、北条氏康の内意を伝え、今後岩付方面に用向きの時は隔てなく連絡するよう申し入れる。
(弘治二年推定)

789
四月十九日
太田道誉は、高野山清浄心院に、北条家滅亡の由を告げ、自身の願いは成就したが、参詣の希望は叶わぬ旨を報ずる。
(天正十九年推定)

「猶々老後願、難有成就候得共、登山申度望迄候
御尊書拝披、過当之至候、如毎年御守并筆墨被掛御意候、千秋万歳目出候、態迄段子一巻進覧、誠表其儀迄ニ候、恐々謹言
四月十九日 道誉
清浄心院 御同宿中

790
四月二十日
太田道誉は、高野山清浄心院に、例年の嘉例に対する礼状を出し、秀吉の関東下国を告げ、武蔵平定後に参詣したい旨を伝える。
(天正十八年推定)

御尊書拝披、快然之至候、如毎年種々被懸御意候、目出珍重ニ候、抑関東為御仕置、関白殿可為御下向之由、我等所へも当春両度御直書被下候、彼以御隠、遂武州本意、御当山へ参、蒙御悃意度念望、此一事候、具桜憑入候、此由可令得御尊意候、恐々謹言
追而御樽銭五十疋進置候、以上
卯月廿日 道誉
清浄心院 御同宿中

※ No.789、790については、以前「高野山と太田三楽斎」(2015年4月11日)で考察しました。

791
四月二十一日
太田道誉・梶原政景は、上杉輝虎の家臣河田長親に、上杉・北条両家和議の条件に付き、所信を示し、輝虎の関東下向等を要請する。
(永禄十二年推定)

792
四月二十一日
太田道誉は、上杉輝虎の家臣河田長親等に、上杉・北条両家和議の条件として、古河公方を古河城に戻すこと等を伝える。
(永禄十二年推定)

793
四月二十一日
梶原政景は、上杉輝虎の家臣志田山城守・山吉孫次郎に、上杉・北条両家の和議のこと等について意向を伝える。
(永禄十二年推定)

794
四月二十二日
足利藤政、太田道誉に武田信玄の武州出張を告げ、出陣を依頼する。
(元亀二年推定)

797
四月二十四日
山吉豊守は、三戸駿河守室「としやう」に、上杉輝虎と太田道誉の仲違いを収めるよう、仲介を依頼する。
(元亀元年)

805
四月二十八日
羽柴秀吉は、梶原政景に父太田資正の時と同様に協力することを伝える。
(天正十年推定)