今年、開創1200年を迎える高野山。

関東から遠く離れたこの密教の聖地、実は、さいたま市の戦国領主、我らが太田資正(三楽斎)も、関わりを持っていました。晩年の太田資正(三楽斎)は、高野山を厚く信仰し、清浄心院宛に寄進を行っていました。そして、関東の情勢や自身の心情を綴った書状を送っていたのです。

しかし、太田三楽斎が清浄心院に送ったこれらの書状、読みたいと思い、探していたのですが、これまで見付けられずにいました。
ところが灯台もと暗し。
資正関係の書状を調べるためにいつも参照していた『岩槻市史 古代・中世史料編Ⅰ 古文書史料(下)』に、これらの書状「清浄心院文書」として収録されていることに最近気がつきました。

これまで見つけられなかったのは、同書状群が、年次別の章には収められていなかったため。これまで開いていなかった、後半の「年次不明」の章に収められていたのです。

気づいた時は、小躍りしました。
以下、その内容を紹介します。

 

①【史料番号751】

「御尊札拝披、過当之至候、当国弓箭且方如被存候、越・甲当無二被相談儀、愚老令媒介候、唯今之分者、武州本意眼前候、然者、五種被懸御意候、目出此一事候、如毎年之御樽銭令進之候、恐々謹言
三月廿六日 沙門道誉」

『岩槻市史』は、「越・甲は、越後の上杉氏と甲斐の武田氏。太田三楽斎の仲介で、上杉謙信と武田信玄が和談したことを指すものであろう」と解説した上で、「本文書は、天正十八年・九年のものと推定される」としています。

しかし、この解説は、いい加減にも程があります。
天正十八年には、上杉謙信も武田信玄もこの世にいません。謙信は天正六年に没していますし、武田家に至っては、天正十年に、既に滅亡しています。(有名な長篠合戦が天正三年です)

書状の中で太田三楽斎は、越後(上杉)と甲斐(武田)の同盟を仲介し、それによって武州岩付(岩槻)回復の本望を遂げる眼前にある、と述べています。
越・甲当無二被相談儀、愚老令媒介候、唯今之分者、武州本意眼前候

しかし、そのような状況は、天正十八年や十九年には、存在しません。
天正十八年には、豊臣秀吉による北条征伐が行われ、同年夏には関東・東北の戦国領主らの処分を決めた宇都宮仕置が実施されているのです。
越甲同盟で、北条氏を攻めるような状況は、もう関東にはありません。

では、いつの書状なのか。
素人考察ですが、私には、この書状は、天正七年に出されたものに思われます。

天正六年に上杉謙信が没した後、関東甲信越の“国際”関係は劇的な変化を遂げます。
上杉景勝は武田勝頼と同盟し、その景勝・勝頼と、関東の反北条領主ら(佐竹義重、宇都宮国綱等)が次々同盟を結び、北条氏包囲網を形成したのです。
(参考:天正六年の『外交革命』

この北条氏包囲網となる“多国間同盟”の構築に、太田三楽斎が大きな役割を果たしたのは、拙稿(天正六年の『外交革命』)でも整理した通りです。

翌年の天正七年三月は、この同盟が機能し、西からは武田勝頼が、東からは佐竹氏を中核とした“御一統”勢が、北条氏挟撃を始めた頃。

このタイミングであれば、太田三楽斎が、「越甲同盟を仲介し、本望であった武州岩付回復は目前」と語っても、おかしくないはずです。

 

 

②【史料番号772】

「御尊札拝披、畏入候、如毎年五種、被懸御意候、目出珍重不過之候、越・甲当無二被相談儀、老拙父子馳走致之候、一度源太為致本意、於武州、御用等申合度、念望迄候、態御樽銭、如嘉例進之候、乏憚入迄候、恐々謹言
四月五日 沙門道誉
謹上 清浄心院 御同宿中」

越甲同盟の仲介者が、三楽斎だけでなく、息子である梶原政景も登場していることを除けば、資料番号751とよく似た内容です。

三楽斎・政景親子の奔走ぶりは、この書状の方が生き生きと表現されているかもしれません。
越・甲当無二被相談儀、老拙父子馳走致之候

資料番号751での考察と同じ、天正七年か、その翌年天正八年頃に発されたものでしょうか。
天正九年になると、既に武田勝頼が、織田・徳川同盟に攻められ劣勢に陥っているので、この文面の書状を出したとは考えにくいと思います。

 


③【史料番号789】
「猶々老後願、難有成就候得共、登山申度望迄候
御尊書拝披、過当之至候、如毎年御守并筆墨被掛御意候、千秋万歳目出候、態迄段子一巻進覧、誠表其儀迄ニ候、恐々謹言
四月十九日 道誉
清浄心院 御同宿中」

『岩槻市史』は、「本文書は、天正十九年のものと推定される」としています。
成就候得共」の部分が、北条氏の滅亡を指しているということのようです。

小田原城が無血開城したのは、天正十八年七月。
確かに、この書状は、十九年四月のものと見るのがよさそうですね。

太田三楽斎が没するのは、天正十九年九月ですから、その半年前の書状ということになります。

武州岩付に帰還する本意(本望)については、もはや語られていません。この頃には、北条氏滅亡後の関東には徳川家康が入封することが天下に知れ渡っていたのかもしれません。

文面が静かで、他の書状のような高揚感が無いように感じられるのは、そのためでしょうか。

④【史料番号790】
「御尊書拝披、快然之至候、如毎年種々被懸御意候、目出珍重ニ候、抑関東為御仕置、関白殿可為御下向之由、我等所へも当春両度御直書被下候、彼以御隠、遂武州本意、御当山へ参、蒙御悃意度念望、此一事候、具桜憑入候、此由可令得御尊意候、恐々謹言
追而御樽銭五十疋進置候、以上
卯月廿日 道誉
清浄心院 御同宿中」

『岩槻市史』は、「本文書は、天正十八年のものと推定される」としています。
私もこの見立てに賛成です。

北条氏を倒すために豊臣秀吉を関東に連れ出すことは、太田三楽斎の年来の大戦略でした。
下の一文は、遂に秀吉が北条氏討伐に踏み切ったことを高揚感を込めて語っていると言えるでしょう。
抑関東為御仕置、関白殿可為御下向之由、我等所へも当春両度御直書被下候、彼以御隠、遂武州本意

書状の書かれた天正十八年四月は、秀吉率いる二十万の上方勢が、小田原城の包囲を開始した頃でしょう。
三楽斎は、小田原に向けて出発する時に、この書状を出したのかもしれません。

北条氏を倒し、今度こそ旧領・武州岩付(岩槻)に帰還するのだ、と気持ちを昂らせている老三楽斎(当時69歳か70歳)の様子が思い浮かぶ文面です。

残念ながら、それは叶わなかったのですが・・・。



太田三楽斎が高野山清浄心院に発した四通の書状を読んでみました。

北条氏包囲網を形成し、これから反撃を始めるのだ、と意気込む時期の書状が2つ(資料番号751、772)。
豊臣秀吉の北条征伐が実現したことを喜び、気持ちを昂らせながら小田原に向かう時の書状が一つ(資料番号790)。
そして、岩付(岩槻)帰還が叶わぬことが分かり、落胆しつつも、静かな日々を送っていたであろう死去の半年前の書状が一つ(資料番号789)。

どれも、当時の三楽斎の活躍や心情を伺わせ、興味深いものでした。

この時の三楽斎に思いを馳せながら、高野山清浄心院を訪ねてみたいと思いました。

※ ※ ※

読んでいませんが、こんな本もあるようです。

戦国武将と高野山奥之院―石塔の銘文を読む/朱鷺書房
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