誰でもない「わたし」 | 深層意識の力を利用し、夢を実現する

誰でもない「わたし」





いらっしゃいませ、マスターの濱田です。


このブログでは、わたしがどのようにして

「悟り」という概念と出会い、

目が覚める経験をしていったか、

その経験談を書かせていただいています。


これから目が覚めていく方、

またもう既に覚めつつある方の

一助になれば幸いです。


これまでの経験談は、テーマ内の

悟りへと誘われた道 」をご覧ください。


仕事も人生のいろんなことも、

以前のように回らなくなった、
精神的にも
ガタガタの3年間 だったとはいっても、


ずっとズタボロでしかなかったわけではなかった。


感動することや、やすらぐことや、

深い気づきを得る経験もそれなりにあった。


そんな経験の中でも、

とても深い気づきをもらえたものがあった。


それは、何度かお世話になった、

山篭りでの瞑想修行。


そこのお手伝いをさせてもらったことだった。


そこでは修行に来る人達のために、食事を作ったり、
いろんなお手伝いをしてくれる人達がいたのだが、

彼らはみな、無償でお手伝いに来ていた。


以前、わたしはある本で、

ボランティアなどの無償での奉仕活動などを体験すると、
とてもよい経験となるというようなことを読んでいた。


だけどそれまでは、

自分のことで手一杯みたいに感じてきて、

恥ずかしながら、そのようなことをやろうという気が

起こったことがなかった。


だがあるとき、やってみよう、そう思った。


今までそんなこと、思ったこともなかったのに、
なぜかはじめてやってみようという思いが、

湧いてきたのだ。


なにがそのようにマインドを変えたのかはわからない。


ただ、やってみよう、

そしてやってみてどうなるかをみてみよう、

そう思った。


経験してみないとわからない。


経験してどうなるか、それをみてみたいと思ったのだ。

理由はどうであれ、

やってみようという気が起こったことがない者が、
やってみようと思った。


この変化自体が、

わたしには少なからず驚きだったのだ。


そして、やってみてどうなるか、

それをみてみよう、やってみないとわからない、
やってみないとみえないものがある、そう思った。





お手伝いは3日間だけだったが、

この3日間は、わたしの中の価値観のようなものを、
大きく変えるきっかけとなった。


わたしが担当したのは、食事の用意、

その中での野菜切りや、皿洗いだった。

野菜切りといっても、何十人もの修行者の食事だ。


毎回、大量の野菜を包丁でカットした。


野菜を切り、食事を運び、片付け、皿洗いをした。


やってみて驚いたのが、

それがものすごく楽しかったのだ。


ただ野菜を切る、運ぶ、食器を、

調理器具を洗う、掃除する。


これを繰り返しやっていただけだった。


だが、すごく、ホントにすごく楽しかった。


はじめ、なぜにこんなに楽しいかが、

わたしにはわからなかった。


だがあるとき、なにが日常と違うのかに、

わたしは気づきはじめた。


わたしはここでは誰でもない一人の「わたし」だった。


普段のわたし、日常のわたし、

それは社会の中での、

「わたし」という役割を生きる「わたし」だった。


文を書き、講演をするわたし。


執筆家、講演家、対面でのセッションをする人という

肩書きを着たわたし。


人の評価を気にし、

いろんなことを気にしながら、
「わたし」という役割を生きていた。


「わたし」という肩書きを生き、

その肩書きが壊れないように、
肩書きを守り、ブランディングという名の

肩書きを作り上げることに必死だった。


そのことに気がついた。


わたしは社会の中で、「わたし」という役割、

「わたし」という肩書きを生きようとしていたのだ。


だが、ここではわたしは誰でもなかった。





「ヒロさん」そんな呼ばれ方をされたのも、

大きかったと思う。


普段は、みなから

(バーのマスターだったときからの愛称で)、

マスターと呼ばれていた。


だがここではそう呼ぶ人はいなかった。


「ヒロさん」という、

それまで呼ばれたことのない呼び名で呼ばれていた。


それまで呼ばれたことのない呼び名だから、

わたしのことだという気があまりしなかった。


だから、そこでのわたしは、名前もない、

肩書きもない、社会で背負い、

演じてきた役割もなかった。


そこではわたしは、

「誰でもないただのわたし」だったのだ。


誰でもない、ただのわたしが、

わたしでなくてもできることをやる。


他の人のお世話をしながらも、完全に裏方だ。


だから感謝されたいという、

期待も思いも湧かなかった。


喜ばそうとか、感謝されたいとか、

認められたいとか、

そのような思いはひとつも湧いてこなかった。


わたしでなくてもいいことを、わたしがする。


社会においては、「自分でなくてもいい」ことなんて聞くと、
なんだか自分には価値がないように感じたかもしれない。


社会の中で認められる誰かであること、

それが社会の中では、わたしにとって大切なことだった。


だがここでは、わたしは誰でもなかった。


本当に誰でもない、ただのわたしだった。


そのことがどれほど自由で、軽やかなことなのかを、

わたしはこの経験を通して初めて知った。


そしてわたしは本来、

「誰でもないただのわたし」だったことを思い出した。


わたしは肩書きではない、役割でもない。


わたしは「誰でもない、本来名前もない、

ただのわたし」なのだということを、この経験を通して、
わたしは思い出した。


それは本当に、かつてないほど軽やかで自由な経験だった。


つづく。


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