鴇田くに奨学基金ビヨンドXプロジェクト事業の原点 | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

2003年(平成15年)2月5日の北陸中日新聞の記事が出てきた。

鴇田くに奨学基金を設立してなぜ今ビヨンドXプロジェクト事業をスタートさせるのかは、この記事を読めばよく分かるはずだ。

「鴇田さんは名舟町の出身で、同小(輪島市立南志見小のこと)前身の旧名舟尋常小学校の卒業生。父を亡くし、母を助けて魚の行商に出たり、海女として海に潜るなど苦労した。19歳で母親が亡くなったため、弟を連れて東京に出たという。
苦学して看護婦になり、弟を医師に育てた。戦時中に夫を亡くしたが、このころにはアパート(マンション)経営を手掛けるなど戦前、戦後の混乱期を女手一つで乗り切り平成元年3月89歳で亡くなった。
鴇田さんはぜいたくな生活を慎み「故郷の子どもたちに本をたくさん読んでもらい、立派な人になってほしい」と昭和22年から同小と南志見中に送金を始めた。
小田原校長は、「毎月1万円で5万円、10万円の時もあったようです」という。
鴇田さんから亡くなってから送金が途絶えたが、昨年末、鴇田さんの遺言執行者の弁護士が「故人の遺言で」と同小に200万円寄贈し、・・・・」
(なお、南志見小側ではその後も毎年5万円の寄付があるものと期待していたようだが、輪島沖地震が発生したため、輪島市に150万円の寄付をして以降は南志見小への寄付は行われていない。)

ここにある遺言執行者とは、私のことである。

故鴇田くにさんは、まだ若かった私を、自分より先に、若くして亡くなった息子の代わりに見立てられていたのだと思う。
私も、中野区の奨学金を得ることでどうにか高校への進学が出来たいわば苦学生の一人であった。
弁護士になりたての私を鴇田くにさんは自分の息子のように思い、自分の思いを託されたのだと思う。

北陸中日新聞の記事を読みながら、涙が流れてきた。

鴇田くに奨学基金・ビヨンドXプロジェクト事業こそ私の仕事の原点であり、多分私の仕事の終着点であろう。