諸君、ご壮健かな。
厳粛な気持ちとなる。
旧海軍司令部壕。
ここは太平洋戦争の末期、沖縄戦の激戦地である。その悲劇は、旧日本帝国軍の絶望的な状況を体現したものであった。
海軍の大田實司令官は、10,000人の兵隊を連れてここに籠った。本土決戦を極力長引かせるためだけに配置された陸軍32軍を支援するために。
今でも多くの遺品が発掘される。ここで彼らは支援をしながら待った。
日本海軍の海上特攻をする戦艦大和を。
しかし日本の魂の支柱となっていた大戦艦は、鹿児島からわずか坊ノ岬沖の北緯30度43分 東経128度04分、連合軍の総攻撃で海底へと沈んだ。
希望は消えていった。
大田司令官は打電機能を喪失した沖縄県庁に代わり、沖縄の戦況を打電した。
陸海軍は戦いにかまけ、民衆を顧みることができなかった。なのに沖縄県民は命を投げ打ってくれたこと、この戦いの労いとして、後世沖縄県民には特別の配慮をしてほしいこと。
多くの若き兵士たちが散っていった。その将来ある命は、何を思って消えていったのか。
子供達は残された。彼ら彼女らを残して命を落とした親たちは、どんなにか無念であったろう。
海軍はこの壕に残って戦った。しかし大軍を要する陸軍は。
作戦会議に海軍を呼ばずに、南方への転進を決めた。
海軍は直前に知り、共に転進をする準備を始め、重火器を壊した。しかし陸軍の決定はそうではなかった。
海軍は陸軍の転進を支援せよ。
彼らは再び、僅かなピッケルで作り上げた壕にこもり。
重火器を破壊したため、僅かな銃器で対抗する。
この狭い部屋で、下士官たちは立ったまま寝た。
この閉鎖された作戦室で、どんな思いで彼らは明日の策をたてたのか。
陸軍が南方で苦戦する中、海軍は打電した。
海軍も転進せよ。
彼らがこの作戦に従わなかったのか、従えなかったのか、今となっては分からない。しかし彼らは、最期までここに籠り戦死した、
大田司令官が自決した部屋も、静かに残っている。まるで何も無かったかのように。
平和な景色、これがいかに大事なものか。ここでかつて恐るべき戦闘が行われたこと、私たちは決して忘れてはならない。