(参考:0326「軍事クーデターから33周年」)


8月12日、アルゼンチンの裁判所は、「エルカンピート」と呼ばれた、ブエノスアイレス北西26キロのカンポデマジョの責任者であった、サンチアゴ・オマル・リベロス退役将軍(86歳)にたいし、1976年4月、当時14歳であったフロレアル・アベジャネダにたいする違法な拷問、殺害などの罪で無期懲役の判決を下した。リベロスはすでにイタリアの裁判所から終身刑の判決を受けていた。高令を理由にした、軍事刑務所などでの服役ではなく、一般刑務所で服役することになる。


1976年3月24日のクーデターによるにアルゼンチン最後の軍事政権(1976-83)の数週間後の4月15日明けがた、共産青年同盟のメンバーでもあったフロレアルは、母親で共産党員であったイリス・ペレイラとともに、覆面の治安部隊によって機関銃を使用しての家宅侵入ののち連行された。治安部隊はかれの父親である同名の労組活動家の行方を捜したが発見できなかった。


2人はピカナと呼ばれる高電圧棒を使っての、脇の下、胸、口、性器などへの拷問などを受けたが、母親はのちにカンポデマジョから一般刑務所に移され、1978年に釈放され、生き延びることができた。フロレアルは「死の飛行」によってラプラタ川に投棄され、胴体部に沿った刺し傷とともに手足を縛られた姿で、5月14日、15歳の誕生日にウルグアイの岸で遺体が発見された。


軍政時代、これに反対する人々約30,000人が行方不明となったが、カンポデマジョは、ブエノスアイレス近郊にあり、このうち約5,000人の行方不明の事件にかかわった。誘拐、拷問、殺害、あるいは生きたまま海中に投棄するなどの行為をシステム的におこなったとされ、軍事工学学校(エスマ)とともに、軍事政権を代表する抑圧機関である。


軍政終了後、軍事政権は裁かれることになり、リベロスも有罪となったが、1990年、カルロス・メネム大統領によって、軍政時代に従った犯罪を今後裁かない法律(obediencia debida, punto final)によって放免されることになる。ネストル・キルチネル大統領は2003年これを廃止することにし、最高裁もこれらの法律が違憲であることを認め、裁判が再開されることになった。


リベロス以外には、カンポデマジョの情報関係の責任者、フェルナンド・ベルプラエステン元将軍が禁固25年、歩兵学校の責任者オスバルド・ガルシア元将軍が禁固18年、尉官クラス2名が8年、警官1名が14年の禁固となった。


カンポデマジョをめぐっては、約500人の犠牲者にかかわって、40件以上の訴訟がおこなわれており、フロレアルの事件は、この「メガ裁判」をめぐる初めての判決となった。法廷は遺族や支援者などの歓喜の叫び、抱き合う姿につつまれた。(0456)