ガダルカナル戦書籍一覧


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2012年 ガダルカナル島御慰霊行 目次
2014年 ガダルカナル島御慰霊行 目次

ジャコブ・ブーザ曹長の像のほぼ対面に位置する記念碑。


形状から見て日本軍関連とは思えません。
接近して見ると・・・

どうも第二次世界大戦の記念碑ではないようです。

記念碑の上部には
Regional Assistance Mission to Solomon Islands.
Helpem Fren.


胴部の刻まれた分
Sealed beneath this monument are the destroyed remains of thousands of weapons surrendered to the national peace council officers of the regional assistance mission to Solomon Islands.
2003JULY to 2004JULY
Regional Assistance Mission to Solomon Islands.
Helpem Fren.
Sealed beneath this monument are the destroyed remains of thousands of weapons surrendered to the national peace council officers of the regional assistance mission to Solomon Islands.


グーグル翻訳で日本語に直すと
ソロモン諸島地域支援ミッション。
Helpem FREN 。
武器の数千のソロモン諸島地域支援ミッションの国家平和協議会役員に降伏破壊された遺骨は、この記念碑の下にあり封印された。
2003年七月 から 2004年七月


となります。

ガダルカナル島民にとっては此の地で繰り広げられた大東亜戦争は既に過去となっているが、此の碑に刻まれたガダルカナルの内戦は現在もネイティブ達の心に大きな傷を残しているのであります。

ガ島の戦跡をご慰霊巡拝するにあたり同行するガダルカナル人が必ず口にする言葉
「あそこはマライタ人の居住するエリアだ。無茶苦茶高い入村料を取られる。マライタ人は物を破壊した悪い奴等だ。あそこへは行きたくない。」

証言一
第二師団の慰霊碑がある タンベア でも遺骨収集団の宿泊されたホテルがマライタ人に破壊され慰霊碑と共にプールだけが残されている。
証言二
エスペランス岬、ベラバウルのヨシモリ碑もまたマライタ人に破壊されマリアさんが海岸に面した場所に私財で立て直したと聞いた。
証言三
川口支隊の上陸地点タイボ岬もまたマライタ人居住地帯で危険との理由で未だ立ち入ることが出来ずにいる。
証言四
タマニカウ川上流のレレイ村対岸マタニカウ村もマライタンの襲撃にあい村民は皆非難し村長一人が残ってマライタ人と話し合ったが、この時村まで引かれていた電気の送電線が破壊され今も電気の無い生活を送っている。
証言五
見晴台上に住んでいた村人がマライタンの襲撃を恐れシーホースバオリッジへ非難し今もバオリッジに居住している。


等々、元々ガダルカナルに住んでいたガダルカナル人の証言で自分から質問して得た回答ではなく話の端々盛り込まれる証言なのです。
これ等ガダルカナル人の証言から、マライタ島から仕事を求めガダルカナル島へ移住したマライタ人が不公平な扱いを受け決起し内戦となったと自分は理解していました。

マライタ人武装グループ

マライタ・イーグル・ホース(MEF)



マライタ島の位置


後述しますが今次ガ島行で知己を得てご一緒させて頂いた在ガ島の日本人「ガ島戦跡探索自主挺身隊」の皆さまに伺ったところ、最初はガダルカナル人がマライタ人を殺戮したのがキッカケなのだと聞き混乱を極めてしまったのであります。

帰国後、ガダルカナルの歴史について調べて見ると・・・

十五世紀スペインの探検家アルバロ・メンダーニャ・ネイラ氏が
サンタイザベラ島を最初に発見し1568年2月6日ガダルカナルで
砂金存在が存在する兆候を発見した。
1595年、0605年スペインの探検家たちが再訪したが砂金の発見には至っていない。
1767年フィリップカータレットがサンタクルス島とマライタ島を再発見している。
その後オランダ・フランス・英国などが訪れているがソロモンの住民は敵対的だったとされる。
十八世紀ソロモン諸島は英国やドイツの保護領となっている。


大東亜戦争については此のブログのメインテーマなので此処では触れません。

1950年代英国の植民地としての体制が卓立され1978年に独立した。
1999年初頭ガダルカナルへマライタ島より移住したマライタ人とガダルカナル人の間でくすぶっていた摩擦がイサタブ自由運動(IFM)いわゆるガダルカナル革命軍(GRA)がマライタ人を恐怖に陥れ約二万人のマライタ人がマライタ島へと避難し残るマライタ人はガダルカナル島で孤立した。
マライタ・イーグル・ホース(MEF)はマライタ人の利益を守るために設立された。
1999年6月28日根本的な問題が未解決のままホニアラ和平協定が同意されたが協定はすぐに決裂2000年6月再び内乱は勃発した。
この間に三万人の民間人が死亡・重傷者が出ている。


ガダルカナル人武装グループ

ガダルカナル革命軍(GRA)

前列中央ケケ将軍

2003年豪州・英国・フィジー・Pニューギニアから警察官300兵士2000がガダルカナルヘ投入されGRAの将軍ハロルドケケは降伏し内戦が収まった。
ガ島の内戦は移住民マライタ人と先住民ガダルカナル人の間に起きた摩擦をガダルカナル革命軍(GRA)がマライタ人へ暴力的排他行為を始め、マライタ人の利益保護のためマライタ・イーグル・ホース(MEF)が結成され内戦となった。

GRAは、ケケのリーダーシップの下で、放火、誘拐、暗殺、殺人などの多様な犯罪を犯したと非難されています。 ケケは個人的に50以上の殺人事件に関与しており2005年に彼はGeveの殺人の有罪判決を受け終身刑となり服役している。


降伏し終身刑となったガダルカナル革命軍(GRA)のケケ将軍


どうも自分の認識が間違えており在ガ島挺身隊の皆さまに御教示戴いた通りでありました。
自分に証言をされたガダルカナル人はマライタ人武装グループが眼前で行った行為を口にされていると思われ、内戦の全てを把握されているのではないようです。

マライタ人からもお話を伺わなくては公平な認識には至らないと云う結論に達しました。

いずれにせよガダルカナル人とマライタ人の間には大きな壁が今も厳然と聳え立っており今すぐ解決出来る問題ではないようであります。

ガ島の御慰霊巡拝には欠かせないガ島の基礎知識だと実感し勉強不足を恥じ入るばかり。
今次、ガ島御慰霊行の記事にも此の辺りの微妙な空気が流れる場面が何度もありましたので長文記事となりましたが公開させて戴きました。

つづく


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